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共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
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阪神淡路大震災とわたしたち NO.2
共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
1995年1月17日朝

細谷常彦

ブログ・恋する経済
被災障害者支援Tシャツ
きぼうのガッツくんTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
阪神淡路大震災とわたしたち
NO.2 1995年1月17日朝
NO.3 新谷のり子さんのこと
NO.4 救援バザー
共に生きる勇気が平和をつくる
NO.1 アフガニスタンの子どもたち
NO.2 同じ空の下で
NO.3 平和にキス
NO.4 ひとは武器を持つこともできるが、鍬を持つこともできる
NO.5 イマジンとガンジーの糸車
NO.6 夢の力を信じて、鳥は飛ぶ
NO.7 21せいきのしつもん
世界がすべて沈黙してしまう夜
小島良喜とイラク戦争と武満徹
忌野清志郎さんと「イマジン」と平和を願う大バザーと
共に生きるすべてのひとの
希望をたがやすために
2011年みんなでつくる春のバザー
1996年おもいっきりバザーを
終えて
2004年平和を願う大バザーの
よびかけ
カレンダー
「やさしいちきゅうものがたり」
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室


 1995年1月17日から今にいたる長い年月、大災害とテロ、そして戦争と、世界からもこの地球からも悲鳴が絶えることがなかった。そして多くの命、幼い命までもが傷つき、息絶えていった。
 けれどもまたこの年月は絶望のみを語っただけではなかった。いろいろな民族、文化、個性が助け合い、共に生きる勇気を育てる社会。
 武器を持たなければ食べ物を得られない悲惨から子どもたちを解放する平和な社会。
 世界のどこで生まれても「しあわせになる権利」を子どもたちに手渡せる社会。
 理想といわれても夢といわれても、そんな夢みる社会への希望をたがやす世界の人々のたゆまぬ努力もまた、この年月につめこまれているはずなのだ。
 そしてその努力の中にぼくたちの障害者運動もたしかにあったのだと信じたい。
 この年月、ぼくたちは何をしてきたのか。何を夢み何をなくしてきたのか。時の風化としてかたづけてはいけないこと。決して忘れてはいけないこと。過去形では語ってはいけない現実。瓦礫から立ち上がり夢みた街の復興・再生とはちがった風景。

 1995年1月17日朝、ゆれなんてものじゃない、「ガツン」というショックで眼を覚ました。仰向けに寝ている僕の上で天井が弧を描くようにぐるぐるとはげしくゆれだした。
 「地震や!」と妻とふたり声をそろえ叫んだものの起きることもできず、ただただ運を天にまかせて布団にもぐりこみ、顔だけ出して天井が落ちてこないかと見つめていた。
 ふとんの足元にテレビが転げ落ちた。午前5時46分、真冬の朝はまだ真っ暗だった。
 しばらくたって、電話が鳴った。妻が電話に出た。「あんた、Nさんからやで」。
 ぼくは今は大阪府吹田市に住んでいるが、この時は大阪府箕面市に住んでいて、豊能障害者労働センターのスタッフだった。

 豊能障害者労働センターの事務所はその一年少し前に建てたばかりのプレハブで、ぼくの家の近くにあった。
 当時、設立時からの障害者スタッフ・梶敏之さんが、豊能障害者労働センターの事務所の和室で仮住まいをしていた。
 教師のNさんはその時の介護者として事務所に泊っていた。事務所の台所の食器棚が倒れ、食器がかなり割れてしまったこと。その後始末はしたが、もう学校に行かなければならない。代わりに事務所に来てほしい。おちついた口調でNさんはそう言って電話を切った。
 「すぐ行きます」と返事をしたが、ぼくはまた布団にもぐりこんだ。梶さんにはもうしわけなかったが、ぼく自身こわくてこわくて、この現実からのがれたいと布団にもぐりこんでしまったのだ。

 「あんた、なにしてんの。梶さんひとりあぶないやんか。早よ行かんかいな。」と妻に言われ、事務所に向かった。
 事務所の大きな引き戸をガラっと開けると、目の前に梶さんがいて、「ワオッ」と変な叫び声をあげた。日ごろは仕事が始まっても自分の部屋から出ず、最初にきた男のスタッフに「たたきおこされる」毎日だったのだが、さすがにこの日は怖かったのだと思う。
 それはぼくも同じで、それでなくてもつぎつぎとゆれが続き、プレハブづくりの事務所の窓がひっきりなしにガタガタビビビーンと鳴るので、ぼくと梶さんはそのたびに「ワオッ」と悲鳴を上げては抱き合った。
 そんなことをくりかえしているうちに少しずつ余震もおさまり、ぼくたちはようやくおちつきをとりもどした。
 8時半になっていただろうか、お腹も減ってきたのでマクドナルドに行こうと、おそるおそる外に出た。
 いまから思えばおかしいが、地震の被害がどの程度なのかもマクドナルドがやっているのかも考えもしなかった。本音で言えば余震のたびにガタガタ鳴りつづける事務所から逃れたい一心だったのだ。
 事務所のすぐ近くの家のブロック塀が横倒しになっていた。その家のおばあさんがぼくたちを見て、「だいじょうぶ?」と声をかけてくれた。その1週間後に亡くなった彼女の一言がいまもずっと忘れられない。
 彼女の死は地震と無関係とされたにちがいないが、決してそうではない。あの地震による死者は発表されているよりははるかに多いのだ。

 一部に建物の崩壊があったものの、隣町の豊中や池田ほどの被害はなかった箕面の街だったが、それでもマクドナルドまでの途中、塀や樹木がたおれ、物が道路に散乱し、いたるところでガラスが割れていた。
 こんな非日常の朝にぼくと梶さんは不思議なことに営業していたマクドナルドで、めったに食べないハンバーガーを食べた。
 ぼくたちがハンバーガーを食べていた時、テレビは信じられない崩壊の風景を映した。そしてそのテレビの外側の瓦礫の下では、6400を越える無念の死のカウントがはじまっていたのだった。
 マクドナルドを出て事務所に戻ると、みんなが少しずつ集まってきた。みんな青ざめた顔をしていた。
 仕事がはじまる時間になってもみんな放心状態だった。まだ何の情報も入らない被災地の障害者を思うと、胸が痛くなり、日常活動なんかできるはずがなかった。

 事務所の周りの路地といっていい道路は車で一杯になっていた。電話ボックスには長蛇の列ができていた。被災地のまわりの街の風景は、おそらくどこも同じだった。家族は、親戚は、友人は、恋人は…、安否を知りたくて日本中、いや世界の果てからも無数の心が被災地へと急いでいた。
 すでに多くのひとたちがリュックを背負い、被災地へと歩きはじめていた。ぼくたちのうちの何人かは今すぐにでも救援活動に行かなければあせっていたと思う。
 けれども、ぼくたちが箕面を離れることができないのも現実なのだ。特別な朝だからこそ豊能障害者労働センターという、箕面での障害者市民運動を休むわけにはいかなかった。

 「救援バザーをしよう」と、誰かが言い出した。ぼくたちは年の初めから約3ヶ月かけて春の大きなバザーを開く計画をしていた。
 「春のバザーの売上はすべて被災障害者の救援金にしよう。それならこの場所から離れないで救援活動に参加できる。」
 やがて被災地に立ち上がった被災地障害者センターから障害者の安否確認、活動拠点の被害情報を満載したFAXが毎日届くようになる。
 それに応えるように「障害者救援本部」が結成され、ぼくたちもその活動に参加することになり、救援物資のターミナルを引き受けることになる。
 豊能障害者労働センター機関紙「積木」紙上でも被災地の読者の方々へのお見舞いと、救援物資と救援金のお願いをした。3月に救援バザーをすることも伝えた。

 それから毎朝、プレハブの事務所は全国から届けられる救援物資とバザー用品で一杯になった。全国の障害者運動団体からは救援本部のよびかけに応えて救援物資が届けられ、「積木」の読者からはバザー用品をいただいた。
 公的な機関の場合は送料がいらないが、自主的な救援活動の場合は送料がかかる。それでもひとりの人がダンボール箱3つも4つも送ってくださり、その中には救援金とともに心のこもった手紙が添えられていた。
 中でもおどろいたのは、被災地の方々から多くのバザー用品が送られてきたことだった。差出住所が避難所だったこともある。
 「地震以後、朝のあいさつは『あんた生きとったか?』です。手をにぎりあって、無事を喜んでいます。あの朝、使わんものが棚からいっぱい落ちてきました。もういのちだけでけっこうや。ここではバザーもまだでけへんやろから、そちらで金に換えてここの障害者のために使うてな。わたしらがこんなに困ってるんやから、障害者はもつと大変やと思う。」 
 みんなで読み、泣いた。毎朝こんな言葉をいっぱいもらって勇気をもらい、救援物資を被災地の障害者に届ける一方で、バザー用品の仕分けをつづけた。
 いつのまにかぼくたちの回りにはいつも100人のボランティアの方々が来てくださっていた。バザー用品の置き場所は箕面市が事務所の裏にあった古いプレハブを提供してくれた。

 ぼくたちの救援活動は、一方的に誰かを助けるということではなかった。かろうじて被害をまぬがれたぼくたちの方こそ終わらない余震におびえ、「次はぼくたちかも知れない」という恐怖におちいっていた。
 死のふちをくぐりぬけてきた被災地の障害者は明確だった。一瞬のうちに無数の命がうばわれ、無数の家と生活がこわれてしまった。
 だからこそ被災地の復興は、共に生きる社会への再生でなければならないのだ。瓦礫の中で自分自身が困難な状態にありながら、障害者のみならず、愛する街の人々への救援活動をはじめようとする被災地の障害者のメッセージは、ぼくたちだけでなく多くの人々の心に届いたのだった。

 「再生の中に共生を、がれきから立ち上がるいのちとつながり、すべてのひとの希望をたがやすために」

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