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共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
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阪神淡路大震災とわたしたち NO.3
共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
新谷のり子さんのこと

細谷常彦

ブログ・恋する経済
被災障害者支援Tシャツ
きぼうのガッツくんTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
阪神淡路大震災とわたしたち
NO.2 1995年1月17日朝
NO.3 新谷のり子さんのこと
NO.4 救援バザー
共に生きる勇気が平和をつくる
NO.1 アフガニスタンの子どもたち
NO.2 同じ空の下で
NO.3 平和にキス
NO.4 ひとは武器を持つこともできるが、鍬を持つこともできる
NO.5 イマジンとガンジーの糸車
NO.6 夢の力を信じて、鳥は飛ぶ
NO.7 21せいきのしつもん
世界がすべて沈黙してしまう夜
小島良喜とイラク戦争と武満徹
忌野清志郎さんと「イマジン」と平和を願う大バザーと
共に生きるすべてのひとの
希望をたがやすために
2011年みんなでつくる春のバザー
1996年おもいっきりバザーを
終えて
2004年平和を願う大バザーの
よびかけ
カレンダー
「やさしいちきゅうものがたり」
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室

このほしは 許してしてきた
このほしは 愛してきた
このほしは 夢みてきた
このほしは

そしてながい時
ひとはこのほしを森を海を
きずつけてきた

このほしを 傷つけながら
人は人を傷つけてきた

「ちきゅう」
詞・細谷常彦
曲・末永正博
歌・新谷のり子

明くる年、新谷のり子さんから数本のカセットアルバムが送られてきた。アルバムのタイトルも「ちきゅう」だった。2001年のCDアルバム「うたたち」にも一番最初に収録され、今も新谷さんが格別の想いをもってこの歌を歌っておられることを感謝している。
この詩をつくるきっかけになったカレンダー「季節のモムたち」は吉田たろうさんの死により、2005年が最後になった。あれから後、世界はより痛ましく、より悲しい暴走をくりかえしている。だからこそ今、このほしも世界も人と人が手をつなぐ勇気を必要としている。


 地震直後の1月21日に障害者救援本部が結成され、豊能障害者労働センターが物資ターミナルを引き受けることになった。
 今はリサイクル事業の倉庫を借りているが、その頃の豊能障害者労働センターは続々と送られてくる救援物資を受け入れる広さはなかった。
 箕面市役所にお願いして、すぐ横にあった取り壊し予定のプレハブを借りることができた。それでもその倉庫はすぐにいっぱいになり,事務所は送られてくるダンボール箱であふれかえった。
 そして大型トラックを運転し、救援物資を被災地に届けつづけたHさんがいた。Hさんはその数年前に脳梗塞でたおれたが奇跡的に回復し、豊能障害者労働センターの一員になった人だ。
 別格の高齢だったが、だれも太刀打ちできない頑強な体力の持ち主である。Hさんがいなければあんなにすばやく必要なときに必要な場所に救援物資を届けることはできなかった。
 ぼくの役目は救援物資を調達することだったが、1月末のある日、救援物資を届けに行くHさんの車に同乗して被災地に向かった。近づくにつれて車はほとんど動けず、風景もどんどん変わっていく。

 朝早く出たが最初の目的地、阪神御影駅の近くに着いた時は昼近くになっていた。ぼくははじめて車から降りて、被災地に立った。
 言葉をなくすとはこういうことなのだと息をのみこんだ。地震発生から十日間、テレビ画面からこの風景が映されないことはなかったはずなのだが、まったくちがう風景なのだ。
 家族たちを暖かくつつんでくれていたはずの家々はすべてこわれ、まわり一面がれきの海だった。風が吹くたびにほこりが舞い上がる。ほんの十日前まであったそれぞれの家族の夢が行き場をなくしたまま、このがれきの下でうごめいている。
 死者6,432名、負傷者43,792名、家屋全壊104,906棟、家屋半壊14万4,274棟。これらの数字のひとつひとには、時が止まってしまった現実の下で動きつづけるもうひとつの時が、かき消された日常生活を刻んでいたのだ。
 がれきの下から立ちのぼるほこりとにおいは、そのことをぼくたちに伝えているのだと思った。

 頼まれた物資を台車に積んで、マンションの一室の障害者団体を訪ねた。そこでは在宅障害者の一時避難と、訪問活動をしていた。
 聴覚障害のYさんが対応してくれたのだが、荷物を全部その部屋に下ろそうとすると、食料品を別の場所に持っていってほしいとのこと。
 彼の案内で荷物を運んだ所は炊き出しの場所になっていた。西宮の障害者団体が炊き出しをしていることが広く知られていたが、ここでも地域の人々が炊き出しをしていて、Yさんたちはぼくたちの持ってきたものを地域のひとびとに提供したいのだという。それを知ってなぜかとてもうれしくなった。

 ぼくたちは特別のニーズを持つ障害者がより困難な状況に置かれていることをひときわ大きく叫ばなければならなかった。事実、遠くはなれた地域では被災地の障害者の情報はほとんど伝わらなかったという。
 だから、障害者救援本部通信、豊能障害者労働センター機関紙「積木」、被災地障害者センター機関紙など、被災地と被災地に近い障害者団体が全国に届けた情報は貴重なものだったと自負している。
 けれども、地震からま10日もたっていない混乱の時に、すでに被災地では障害者団体が地域全体の救援活動をはじめていたのだ。
 みんな、この街を愛しているのだ。子供、親、家族、友だち、多くのいとおしいひとを一瞬にしてなくしてしまい、こんなになにもかもこわれてしまった。
 みんなが殺気立ち、悲しみ、怒りの最中で、残された者たちの「共に生きる」未来が、愛する街の未来が始まろうとしていたのだ。

 次の目的地である長田に向かう途中、王子公園の近くの大衆食堂でご飯を食べた。食堂もまたこわれかけていたが、活気に満ちていた。
 普通の営業ではなく、近所の人々のための炊き出しをしているような雰囲気だった。ぼくとHさんは豚汁と大盛りの飯だけの定食を食べた。とても安い昼食だったが、とびきりうまかった。
 長田には、被災地障害者センターの仮事務所が、こわれかけのマンションの一室にあった。とても忙しくしていたので、依頼されたバイク数台と20台ぐらいの自転車を下ろして早々に引き上げた。
 ここでは兵庫の障害者運動団体や障害者救援本部とネットワークをつくり、被災障害者の安否確認、実態調査、家庭訪問、介護ボランティア派遣、障害者用避難所、仮説住宅の建設など、救援活動を広げようとしていた。

 最後にぼくたちは、須磨区にある豊能障害者労働センター機関紙「積木」の読者の家へと向かった。バザー用品を提供してくれるというのだ。
 「私は避難所にいるので、玄関前に出しておくから持っていって」と電話があり、こんな時期にしかも被災地にバザー用品を取りに行くのも変かなと思ったが、そのひとの気持ちがとてもうれしかった。
 なんとかたどりつくと、半壊の家の前に張り紙とともにバザー用品が置いてあった。

 もう日は暮れて、車は箕面へと帰り道を走った。夜の被災地は真っ暗だった。
 この時期「見上げてごらん、夜の星を」がラジオからよく流れていた。被災地では長い間、星の光がひとしおにじんでいた。見上げる人々も見つめられる星たちも、あの寒い夜空で凍りつく悲しみをかくしていた。
 こうして、長い一日が終わろうとしていた。とてもハードな一日だった。毎日文句もいわず、物資を運びつづけるHさんに頭が下がった。

 2月20日ぐらいだったと思う。新谷のり子さんから電話をもらった。「去年買ったカレンダーの礼状に書いてある詩に曲をつけて歌ってもいいですか? というか、今作曲してもらっているんだけれど」。
 障害者労働センター連絡会制作のカレンダー「季節のモムたち」は、障害者の所得をつくりだすことと、このほしの小さないのちが大切にされることを願い、吉田たろうさんがいっしょうけんめい描きつづけてくれたものだ。
 豊能障害者労働センターは通信販売でカレンダーの販売数を増やし、この年は3万部を全国に届けている。白黒の機関紙ではカレンダーのあざやかなイラストを案内することができない。ぼくたちはこのカレンダーに託した願いをなんとしても伝えたいと思い、ありったけの言葉を紡ぎ、機関紙「積木」、チラシ、礼状などに書きつづけてきた。
 この年はモムのポストカード「やさしいちきゅうものがたり」のメッセージとしてつくったものを少し短くして、カレンダーの礼状にしていた。
 新谷のり子さんは何年も前からカレンダーを買ってくれていて、たまたまその礼状が彼女の目に止まったのだった。

 電話をもらった時、正直少しためらった。自然災害は突然起こり、ぼくたちの想像をはるかに越えた破壊力でひとの命を奪い、家をこわし、生活をこわしてしまう。
 それを思うと「なにがやさしいちきゅうだ」と思った。まして、被災地の人々がこの歌を聴いてどう思うだろうか。
 その心配を言うと、「いまだからこそこのメッセージを歌にして、被災されたひとびとに勇気を届けたいのです。ひとは地球に生かされているのです。」と、新谷のり子さんは言った。
 ぼくはその言葉に教えられた。地球環境を大切にすること、武器を持たなければ守れない安全より、武器を捨てる勇気にきたえられる平和をつくりだすこと・・・。
 自然の怖さを見せつけられ、こんな悲しみの中にあるからこそ、「共に生きるちきゅう」を願い、「共に生きる街」の再生・復興のために行動しなければならないのだ。そうでなければ、6400をこえる無念に申しわけが立たない。
 自分の詩が歌になるなんてとてもはずかしかったが、新谷さんが言ってくれたことに勇気をもらい、歌にしてもらった。
 そしてぼくたちが被災障害者救援活動をしていることを伝えると、「被災地で救援活動やコンサートをしているが、そちらの活動にもぜひ参加したい」と言ってくれて、3月18日の救援バザーに来てくれることになった。音響もオペレーターも新谷さんが用意してくれた。

 そして…その歌「ちきゅう」を救援バザーで歌ってくれることになった。

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