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共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
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阪神淡路大震災とわたしたち NO4
共に生きるすべてのひとの希望をたがやすために
1995年3月18日の救援バザー

細谷常彦

ブログ・恋する経済
被災障害者支援Tシャツ
きぼうのガッツくんTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
阪神淡路大震災とわたしたち
NO.2 1995年1月17日朝
NO.3 新谷のり子さんのこと
NO.4 救援バザー
共に生きる勇気が平和をつくる
NO.1 アフガニスタンの子どもたち
NO.2 同じ空の下で
NO.3 平和にキス
NO.4 ひとは武器を持つこともできるが、鍬を持つこともできる
NO.5 イマジンとガンジーの糸車
NO.6 夢の力を信じて、鳥は飛ぶ
NO.7 21せいきのしつもん
世界がすべて沈黙してしまう夜
小島良喜とイラク戦争と武満徹
忌野清志郎さんと「イマジン」と平和を願う大バザーと
共に生きるすべてのひとの
希望をたがやすために
2011年みんなでつくる春のバザー
1996年おもいっきりバザーを
終えて
2004年平和を願う大バザーの
よびかけ
カレンダー
「やさしいちきゅうものがたり」
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室


 救援バザー当日の1995年3月18日は朝から曇り空で、いつ雨がふってもおかしくない天気になった。
 この日のために地震の日から毎日、100人のボランティアの方に助けられて準備してきたのだ。雨にたたられてたまるものかと、重い空を見上げながら当日の準備をはじめた。
 そんな天気だったがどこからともなく人が集まり、開始時間には人があふれかえっていた。品物はあっという間に売れてしまい、商品の追加に追われた。この日は約200人のボランティアスタッフに来ていただいたのだが、どの売り場も人手が足らずてんてこまいだった。
 野外ステージではいくつかのグループにつづき、新谷のり子さんのライブがはじまった。野外ステージのまわりに人がたくさん集まってきたが、それにつられるように一段と空が暗くなった。
 何曲かが過ぎ、新谷さんが「ちきゅう」を作詞したぼくを紹介し、歌い始めるとぼくは完璧にかたまってしまった。自分の言葉が歌になっていることがとても不思議でとてもはずかしくて、まともに歌を聴けなかった。

 途中雨がぱらぱらと降ったものの、被災障害者のメッセージも終わり、片付けに入ったとたん、ザァーッと雨が降り始めた。
 それは絶妙のタイミングだった。みんなの願いをかなえて雨ががまんしてくれたのだ。売上は400万円にものぼり、機関紙で呼びかけた救援金とあわせて1000万円を障害者救援本部に届けることができた。
 こうして、豊能障害者労働センターは被災障害者救援活動に一区切りをつけた。この期間、お店は別にして事務所スタッフは全員救援活動に専念していたので運営費は底をついていて、急いで日常活動にもどらなければならなかった。
 もう春が来ていた。どんなに悲惨な時の荒野にも季節は巡ってくるのだ。桜の花が舞い降りる春のあたたかさが、この年ばかりは残酷に思えた。

 地震の日から2ヶ月、無念と悲しみと怒りの中で困難に立ち向かう被災障害者の勇気と友情をたよりにひた走ってきた。
 社会全体がそうであったように、この2ヶ月間はその後の豊能障害者労働センターの活動を決定づけることになった。
 ひとつは、全国各地で地道な活動を重ねてきた障害者の拠点とネットワークをつくることができた。
 それまでも障害者労働センター連絡会の一員としてのネットワークを持っていた。就労を拒まれる障害者が福祉制度の対象としてではなく、自らが事業を起こし、障害者の就労と所得をつくりだす連絡会のカレンダー制作は、社会的企業、ソーシャルビジネスや市民事業、NPO活動に光が当たりだした現在でもまだ、異彩を放つ先見的な事業だったと確信する。
 そのネットワークがあったからこそできたことなのだが、障害者救援本部の救援物資ターミナルを引き受けたことで、全国から学生さんが応援に来てくれたり、付き合いがなかった遠方の障害者団体から物資が届いたり、直接持ってきてくれたりした。
 当時の障害者運動団体、福祉団体、それらにかかわる方々との交流が一気に広がった。それにともない、カレンダーの販売数は飛躍的に伸び、翌年には連絡会全体で55000部、そのうち豊能障害者労働センターは32000部を販売した。
 もうひとつは、救援バザーをきっかけにリサイクル事業が本格的にはじまった。毎年開くようになった春の大バザーは北大阪の一大イベントとして広く知られるようになった。そして今では5店舗もあるリサイクルショップの1号店「くるりん」が開店したのも95年の夏だった。
 実は、救援活動が一段落した4月以降も続々と物資が届けられた。「今度はあなたたち自身の運営に役立てて」と、遠方からは宅配便、近くからは電話がなりつづけ、ぼくたちは4月以降もバザー用品の回収、整理に追われた。
 そこで、日常活動としてリサイクルショップの運営をはじめたのだった。その後次々と店を開き、大きな倉庫も持つほどに成長したリサイクル事業は、障害者スタッフが各お店を担当し、より地域の市民とのつながりも深まった。

 リサイクル事業は今では年間にすると2000万円を越え、障害者の給料をつくりだしている。たしかに豊能障害者労働センターも福祉助成金がなくては運営ができないが、それにたよるだけでなく市民の方々が提供してくれたリサイクル品を障害者が販売し、障害者の働く場と給料をつくりだす。
 行政の助成金も市民のリサイクル品も「ともに生きる街」をつくるための運営基金として「再利用」されるという、全国的にもユニークな活動と思う。
 震災以後、障害者運動の多くが福祉制度に関わる介護派遣事業を主な活動とした中で、豊能障害者労働センターは障害者が参加し、運営を担う自主事業、ソーシャルビジネスによる所得保障をめざす活動をより明確に進めていくことになる。
 その活動は従来の福祉制度から大きくはみだし、社会のあり方を問いなおすこととなっていく。それはまばたきする間に世界中をお金が駆け回る経済ではなく、「顔の見える関係」を大切にした「夢見る経済」への冒険でもあった。

 4月に入り、被災障害者を長期的に支援する「ゆめ・風基金」の設立準備がはじまり、永六輔さんが呼びかけ人代表になる。
 6月22日には「ゆめ・風基金」立ち上げのイベントがフェスティバルホールで開かれた。そして7月2日、豊能障害者労働センターは箕面市民会館で永六輔さんのトークイベントを開く。

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