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共に生きる勇気が平和をつくるNO.5
「イマジン」とガンジーの糸車

2002年 細谷常彦

ブログ・恋する経済
被災障害者支援Tシャツ
きぼうのガッツくんTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
阪神淡路大震災とわたしたち
NO.2 1995年1月17日朝
NO.3 新谷のり子さんのこと
NO.4 救援バザー
共に生きる勇気が平和をつくる
NO.1 アフガニスタンの子どもたち
NO.2 同じ空の下で
NO.3 平和にキス
NO.4 ひとは武器を持つこともできるが、鍬を持つこともできる
NO.5 イマジンとガンジーの糸車
NO.6 夢の力を信じて、鳥は飛ぶ
NO.7 21せいきのしつもん
世界がすべて沈黙してしまう夜
小島良喜とイラク戦争と武満徹
忌野清志郎さんと「イマジン」と平和を願う大バザーと
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 NHKの特集番組「世紀を刻んだ歌2 イマジン」を見た。アメリカの同時多発テロ直後、ラジオ局の放送自粛リストに「イマジン」があったこと、それにもかかわらずリクエストが次々と寄せられ、アメリカだけでなく世界中にこの曲がふたたび流れたことを伝えていた。
 ジョン・レノンが作ってから30年の間、誰もが差別されず、平和に暮らせる世界を願うひとびとによってこの歌が歌われてきたことは、たしかなことだと思う。
 ぼくは「インターナショナル」はまったく知らないしまた歌いたいとも思わないが、「イマジン」にどれだけの涙を流し、勇気をもらったか計り知れない。

 ぼくが「イマジン」をはじめて聞いたのは、発売された1971年のFM大阪の番組だった。1970年1月、ぼくは3年間のフリーター生活を終え、工場に就職した。
 あたりまえのことだが、妻との暮らしをはじめるには安定したお金を得なければならなかった。70年安保闘争で騒然としていた世の中は、運動に参加しなかったぼくでさえ納得できない鬱屈な感情を押し込め、理不尽さと静けさを取り戻していた。
 対人恐怖症にくわえて不器用なぼくにとって工場勤めは苦痛だった。それまでの3年間、青臭く「自分たちだけの経済、社会と関わりない暮らし」をめざして友人6人と暮らし、夢破れて「怖い社会」に紛れ込もうとする緊張で心はハリネズミのようだった。

 その年の冬のボーナスの全部を使い、はじめてステレオを手に入れ、ビートルズ、ボブ・ディラン、ジョン・コルトレーン、三上寛のLPレコードを買いあさった。
 そうすることでそれまでの三年間の切ない青春に心をとどめていた。1971年、ぼくは結婚し、万博景気でできたばかりの文化住宅を借りた。70年にビートルズは解散し、ぼくはもっぱら彼らのソロアルバムを待っていた。

 ぼくがジョン・レノンをほんとうに好きになったのは解散以後の「ジョンの魂」を聞いてからで、早く次のアルバムが出るのを待ち焦がれていたのだった。
 そして2枚目のアルバム「イマジン」の発売を知らせるラジオ番組で、全曲が流れた。それを聞きながら、こんなぼくでも生きていけると思った。いっしょうけんめい心を開こうと思った。
 そして、怖いと思っていた社会と、不器用ながらも付き合って行けるのだと思った。みんないっしょうけんめい生きているのだとわかった。

 それから何回、「イマジン」を聞いたことだろう。自分のいっしょうけんめいだけではどうすることもできない世界の紛争と死んでいく子どもたち、豊かといわれるこの社会で起こる悲しい事件をテレビや新聞で見ているだけの自分。このままでよいのかと思う時、ぼくはいつも「イマジン」を聞き、口ずさんだものだった。
 そしていつか、ぼくが夢みる勇気を捨てなければ、自分が生きているというたしかな実感を持ち、助け合うことで豊かになっていく「約束の地」がぼくを待っているのだと思うようになった。そして、1982年、ぼくはやっと豊能障害者労働センターと出会うことになる。

 Iさん、あなたが教えてくれた「善きことはかたつむりの速度で動く」というガンジーの言葉に、ぼくは胸の高まりをおさえられません。
 非暴力、非屈服でインド独立の実現に人生をかけたひとというぐらいしか知らなかったぼくは、この稀有のひとがインドのひとびとを動かし、ひとびともまた彼を動かした壮絶なたたかいに感動しました。
 独立の実現は武力によってではなく、人間に対する信頼、真理、愛に裏付けられた徹底した非暴力しかないという理念から、ガンジーは貧しい農民やカーストの最底辺に置かれた賎民たちといっしょに自給自足経済の村づくりをすすめました。

 1920年、ガンジーは紡ぎ車の運動をはじめます。綿糸をつくる紡ぎ車を復活させ、全土に普及させたのです。
 この運動はイギリス植民地政策への具体的なたたかいでした。それはイギリス商品の不買運動、イギリス系の学校、裁判所のボイコットなど、市民的非協力運動へと大きく波及します。
 この運動でつくられた民族服を着ることはインド独立へ意思表明になったといいます。

 そして、1930年の塩の行進。イギリスは塩に税金をかけて莫大な利益を得ていました。ここでも彼は塩税拒否という、だれもがわかるたたかいをよびかけ、アシュラム(ガンジーの道場)から海岸までの三八五キロをゆっくりと歩いたのでした。
 60才のガンジーから16才の少年まで、世代や階級をこえた静かな道中はひとびとで埋め尽くされ、海岸についた時には無数のひとびとが塩水をすくい上げたといいます。
 それらのたたかいのたびに多くのひとびとが弾圧され、傷つき、牢獄に入れられました。

 平和を願う心、差別をなくす意志、非暴力の理念が自立した経済を生み出す活動に裏付けられていることに、ぼくは共感します。
 ぼくたちがいま進めようとしている市民事業は、ガンジーの紡ぎ車に近づくことなのだと思います。
 もちろん、ぼくたちがいま逮捕されることはないでしょう。けれども、障害者は就労を拒まれ、自立生活をするためのお金もなく、たとえ自立したとして介護保障も完全ではありません。
 もし一般経済に参加をこばまれるなら、ぼくたち自身の自立経済をつくりだす以外にないとぼくたちは思いました。その夢を実現するたたかいが、豊能障害者働センターの活動だと思っています。

 同時多発テロとアフガニスタンへの軍事行動で多くの人々がなくなりました。そしていま、イラク攻撃がはじまるかも知れません。なにをしても無力に思えます。
 ぼくたちは難民救済と自立を支援するNGOを尊敬し、少ないながらもお金は送れますが、ぼくたちはここを離れることはできません。ぼくたちは北大阪の小さな荒野を耕し、障害のあるひともないひとも、誰もが幸せになるための経済をつくりださなければならないのです。

 理想主義といわれたガンジーの夢は時も場所もかわって、ガンジーを尊敬していたといわれるキング牧師に、そしてキング牧師が暗殺された三年後に生まれた「イマジン」へと受けつがれているのだと思います。
 そしてぼくたちの活動も世界中にあるはずの見果てぬ夢の地下水脈とつながっていることを、切実に願っています。

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