だれもが心の底に
なつかしい風景をかくしている
そこでは行方不明の夢たちが
かがやく朝を待っている
目を醒ますといつのまにか
おとなになったこどもたちと
こどもになったおとなたちが
必死に手をふっている
たとえば若い頃のヒットナンバーがラジオから流れたとたん、何十年も前の出来事や住んでいた街の風景を一瞬に思い出す。その風景の些細な部分がくっきりとよみがえる。そんな経験はだれもがもっていることだろう。
友だちや好きだったひととお茶を飲んだ喫茶店の壁の色からテーブルの形、コーヒーの香りとカップの手ざわり…。そして、若いぼくはテーブルの前に座っているだれかとコーヒーを飲んでいる。何十年も前からずっとそうしていたかのように。
松井しのぶさんのイラストをはじめて見たとき、ぼくはそんな驚きとなつかしさで心がいっぱいになった。
ぼくは高校の時、美術部に入っていた。といっても毎年4月の2週間ほど石膏デッサンをするだけで、3年間に一枚も絵を描かなかった部員だった。小学校、中学校とまわりから絵が上手といわれていい気になり、美術部に入っただけだった。
大阪市内の工業高校に入学したぼくは、学校に行くのがずっと苦痛だった。1年の時はまだ専門課程の建築を勉強したがすぐにいやになった。いつも反抗的でありながらおどおどしていて、教師にも同級生にもけっして心を開かなかった。
といっても、なにも学校や同級生に問題があったのではない。ただ単にぼくが吃りで対人恐怖症だっただけだ。他人からみればなんでもないことかも知れないが、背丈をこえる巨大な劣等感におしつぶされるのを必死にこらえていた。
美術部に入ったおかげで、そんなぼくにも友だちができた。当時流行したこまどり姉妹の不幸な身の上話の歌ではないが、「どもりの私生児で貧乏」とくればこれ以上の不幸は誰にも負けないと思ったが、ぼくのともだちはそれ以上の事情をかかえていて、そのことがぼくたちの結束力を高めることになった。
「死のう会をつくれへんか」と声をかけてきたのは、機械科の先輩だった。ぼくが「詩の会だったらいいよ」というと、どちらでもいいということになった。実存主義にかぶれたぼくたちは哲学の話をよくした。
それからすぐ、ふたりの生徒が死んだ。ひとりはその機械科の先輩の同級生で、優等生の彼は一流企業への就職が決まってすぐのことだった。もうひとりは、ぼくの同級生で、たしか喘息の発作で死んだのだと思う。彼が死ぬ1週間ほど前に「ぼく、公園で男と女が抱き合っているのを見てしまった」と言ったのを今でもおぼえている。卒業写真の丸枠に入っている彼の影の薄い顔写真を見ながら、ぼくは「あいつはそれを見たから死んだんや」と、今から思えばとても残酷な納得をした。
そんな暗くてあぶない高校時代に、ぼくをわくわくさせたものが「シュールレアリスム」だった。キリコ、デルボー、タンギー、マグリット、ブルトン、エリュアール……。
正直言えばそれらに感動する感性を持ち合わせていなかったし、いまもよくわからないのだが、それらが放つ魔力にとりこになってしまったのだ。
ぼくはそれ以後、美術、演劇、映画、詩、音楽など、いろいろな表現行為や作品に興味を持つようになった。何十年もたってライブやイベントをプロデュースしたり、カレンダー、ポストカード、Tシャツなどの制作を手がけたりしたのもそこから始まっている。
松井しのぶさんのイラストは、「シュールレアリスム」と出会ったその時代にひきもどしてくれた。彼女のイラストにはどこかほの暗く、やさしい透明な光があって、そこでは過去と未来が、記憶と夢が溶け合っている。そして、だきしめたくなるノスタルジーの中に、未来への強い意志、願い、祈り、希望がかくれている。
真っ青な空、限りない緑、暖かい赤……、小さな一枚の絵の隅から隅まで、この世界の、空の、海の、森のすべてのいのちへのいとおしさに満ちている。
1963年から1970年までの7年間、正義と裏切りと野心と希望に溢れた時代の中で、ぼくは自分に腹を立てながらどうしようもない時を生きていた。すべてを「どもり」のせいにして、狭い心の地下室に閉じこもっていた。それでもいまふりかえると、その7年間がまちがいなく今のぼくをつくったのだと思う。それ以後今までめざましいことをなにひとつして来なかったし、お金もほとんどない。先行きとても不安な人生であることはまちがいない。
けれどもまたその7年間がなければ、そのころには思いもつかなかった障害者をはじめとする多くの友だちとは出会わなかった。いまぼくが生きているすべてのことがら、すべての感じ方、すべての行動、「ぼくのものがたり」はその7年間に、まだ記述されない未来としてかくされていたのだ。
ぼくはいま、その7年間の自分自身を抱きしめる。「ありがとう。これからもだいじょうぶだよ」と。