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松井しのぶと宮沢賢治とぼくの青春

ブログ・恋する経済
恋する経済オリジナルTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
松井しのぶさんプロフィール
松井しのぶさんとの出会い
松井しのぶとシュールレアリスム
松井しのぶと宮沢賢治
松井しのぶと宮沢賢治2
松井しのぶと阪神大震災の焚き火
松井しのぶと光のくじら
壁掛けカレンダーの切実な役割
映画「ストロベリーショートケイクス」
そして希望の一年がやってくる
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50部以上、特別協力会員価格でお届けします。障害者団体に限りません。
1984年、吉田たろうさんとの出会いからカレンダーの制作が実現しました。2003年に急死されるまでの20年間、協力してくださった吉田たろうさんに深く感謝しています。
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最近、JR吹田駅に立ち寄り、19才の時住んでいたアパートをさがしてみた。その頃でももうかなり古い建物だったし、駅周辺は整備されているので残っているはずがないと思っていたのだが、雰囲気がよく似た建物があって驚いた。はっきりとは思い出せないのだが、もうだれも住んでいないその建物のまわりを歩くと、時の階段をすべりおちるようにその頃の風景や小さな出来事までもがどっとあふれてくるのだった。アパートの近くにあった銭湯はそのままあったが、古本屋はもうなかった。
吹田操車場は1984年に60年の歴史を閉じている。

細谷 常彦

 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗(らしゃ)宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
 
ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないことを、わたくしはそのとおり書いたままです。
                      
      (「注文の多い料理店」序 宮沢賢治)

 松井しのぶさんのポストカード「風のメルヘン」・「星のメルヘン」、星の手紙・風の手紙・森の手紙Tシャツを制作していて、前に書いたシュールレアリスムとの出会いとは別に、19才のころに読みあさった宮沢賢治の童話を思い出していた。
 子どものころは怪人二十面相や名探偵ホームズにあこがれ、鬼ごっこをアレンジした少年探偵団ごっこに明け暮れていた僕に、宮沢賢治の童話が心に入り込むことなどなかった。中学の国語の教科書で「永訣の朝」が載っていて、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」という方言のくりかえしが、妹の死に直面する兄の切迫した悲しい心をみごとに表現していたことをかろうじて思い出す。

 高校を卒業したものの、ぼくは半年で建築設計事務所をやめた。時代は70年安保闘争に代表される政治の季節でもあったが、1950年代半ばからの高度経済成長のただ中で、日本全体が戦後民主主義の心を巧妙に捨てることですこしずつ貧乏ではなくなっていた。仕事はさがせばそこそこあり、お金もそこそこくれた。
 野望と妄想がきしむ暗い青春のふちに立ちつくし、対人恐怖症のぼくは気の合うともだちとだけつきあい、「おとなたち」とは無縁なところで生きていきたかった。高校を出てすぐ友だち3人と暮らしはじめたが、やがてそのうちのひとりと一緒にJR吹田駅前の古いアパートに移り、それからまた半年ほどでその友だちも出て行った。当然会社勤めができないぼくは今で言うフリーターで、ビルの清掃をしながらなんとか社会とつながっていた。

 高校を卒業して1年がすぎていた。1966年7月、ぼくは19才になった。
 アパートの2階の部屋には家具というものがなく、ダンボールに下着と本を詰め込み、上着はハンガーにかけていた。かなり大きな窓は東向きで、朝の光は容赦なくぼくのからだをつつむ。ぼくは窓際に立ち、外に広がる風景をみつめる。今では信じられないが、そこは旧国鉄貨物線の吹田操車場がはるか遠くまで広がり、出発を待つ蒸気機関車が「ポー、ポー」と汽笛をひびかせ、黒い煙がもくもくと朝の風をゆするのだった。
 何本もレールが交錯し、続いていて、蒸気機関車は黒く光り、そのはるか上から見下ろすように、空はやさしく朝の光をつつんでいた。それはほんとうに美しい風景だった。窓ガラスが割れて青空の破片が部屋に散乱するマグリットの絵があるが、ぼくが見続けた朝の風景もまた、窓に切り取られた一枚の絵そのものだった。

 その風景を見ながら、ぼくは心でさけんだ。「自由だ。助けてくれ」。実際、そのころのぼくは数人の友だちしかいなかったし、それも1週間に1度も会わず、またビルの清掃仲間のお年寄りたちにかわいがられはしたが心を開くはずもなく、まったくだれとも話をしない日もあった。それがぼくの望みであったはずで、事実あの時ほど自由だったことはなかったが、それは同時にだれひとり僕のことなど関心ないということでもあった。街にはこれだけ多くのだれかが多くのだれかにしゃべりつづけているのに、ぼくひとり透明人間のように騒々しい街を通り抜けていた。それが孤独ということなのだと、ぼくははじめて知った。

 そんな毎日を送っていたぼくの楽しみのひとつが、古本屋めぐりだった。一歩店の中に入るとほこりっぽく薄暗い空間は、ぼくの心をなごましてくれたものだった。雑音だらけのラジオの向こうから擦り切れた声で、アームストロングが「聖者の行進」を歌っていた。
 ぼくはアパートの近くの古本屋で、天沢退二郎著「宮沢賢治の彼方へ」を買った。この本がきっかけで、ぼくは宮沢賢治の童話集を読むことになる。
 実際のところ、天沢退二郎をはじめ多くの論者が語る宮沢賢治の世界を理解できたわけではなかったが、ぼくの孤独な心に宮沢賢治の童話はとてもなじんだ。幸せな話、悲しい話、愉快な話、教訓話など、どの童話も東北岩手の厳しく透きとおった風景から生まれたもので、時も場所もまるでちがうはずなのに、読み始めたとたん、心の奥に大切にしまっておいたなつかしい風景があふれ、その中に子ども時代のぼくが立っている。

 ボールを当てて遊んだガード下、そのコンクリートに張られた場末の映画館のポスター、かくれんぼに最適だった神社につづく小学校の裏庭、母と兄と3人で暮らしたバラック小屋、そのまわりの一面の田んぼ、木の電柱、そのぼんやりした電球の下で友だちとしゃべった夏の夜…、岩手の風景とはまったくちがう、ぼくしか知らないなつかしい風景がよみがえり、ぼくに語りかけるのだった。

 いま読み直してみて、宮沢賢治の童話ではどんなものも語り始めるのに驚いてしまう。普通の擬人化を行き過ぎて動物や植物はもちろん、岩も鉱石も電信柱も信号も、時には大きな倉庫やちりとりまでもが語りかける。それはまさしく、孤独な心にこそ聞こえてくる宮沢賢治の孤独そのものなのだと思う。だが、けっしてその孤独はつらいだけではないのだ。孤独であるからこそ人間だけではなく、この星のすべての小さないのちとつながっていけることを、宮沢賢治はぼくに教えてくれたのだと思う。

 松井しのぶさんのイラストからあふれてくる、このせつなさはなんだとずっと考えていた。今はそれが孤独な心、つながろうとする心の手紙なのだと思っている。そして、19才の日々を過ごしたあのアパートの美しい朝の風景、大きな窓に切り取られたぼくの孤独、部屋に散乱した空の破片…、宮沢賢治の童話がそうであったように、松井しのぶのイラストはぼくのなつかしい風景そのものなのだ。そしてまた、あなたのなつかしい風景もまた……。

 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
                            (「注文の多い料理店」序 宮沢賢治)

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