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豊能障害者労働センター30周年
豊能障害者労働センターストーリー NO.1

細谷常彦

ブログ・恋する経済
恋する経済オリジナルTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
story.NO.2
少年とその母親が市役所のガラスのドアをみつめていた。
story.NO.3
Yさんが、労働センタ−のかたむいた戸を開けた
story.NO.4
ボブ・マーレーは、あなたにこそ歌っていた。
story.NO.5
事務所の拡大移転
story.NO.6
山田太一さんも小室等さんも、桑名正博さんも小島良喜さんも。
story.NO.7
売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」
story.NO.8
平和を願う心が自立経済を生み出す活動につながることを、ガンジーが教えてくれた。
拡大移転基金500万円基金よびかけ文 河野秀忠
1990年・念頭所感 河野秀忠
1991年・念頭所感 河野秀忠
1992年・念頭所感 河野秀忠
15周年プラス・ワンパーティー・パンフレットより 河野秀忠
さよなら二十世紀
21世紀の子どもたちへ
カレンダー
「やさしいちきゅうものがたり」
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室

 
 時は目に見えるものではないのだから、豊能障害者労働センターの30年を机の上に積み上げることはできない。しかしながら、30年前のわたしたちに、今の労働センターの姿を想像できただろうか。
 時のるつぼは時計の中にはなく、わたしたちの心とからだのなかにある。だからこそわたしたちは、生きているという手ざわりのある実感をとおして、この今を30年の歴史とつなぎあわせることができる。

 ひとりの脳性まひといわれる少年がいた。当時彼は養護学校の高等部3年に籍をおいていた。
 彼の目の中でこの街は、いつもバックミラーに映るかげろうのように彼の前を通りすぎ、手をのばすにはあまりにも遠く、キラキラとゆらいでいた。
 買い物すがたの母親たちと子どもたちの歓声。道路工事の看板と、汗まみれに働くひとびとのたくましい腕。モーニングサービスをすませたのだろうか、喫茶店を出て足早に信号をわたる背広すがたの青年たち。
 そして、付近の学校の運動場で思い思いに体を動かし、遊んでいる同じ年頃の少年少女たち。
 毎朝、彼が通学のために乗るタクシーは、そんなどこにでもある街のざわめきの中を、つぎつぎと立ちあらわれる信号の指し示す方向に向かって走りつづけていたのだった。

 学校で彼を待っていたのは訓練だった。
 彼のまわりのおとなたちは、彼の将来の設計図を差し出す。「自分でできるようになること」……。
 この街全体が、他人に迷惑をかけず、自分のことができるようになることを要求しているように彼には思えた。
 彼はまじめだった。一生懸命がんばった。
 そしてまわりのおとなたちは、彼のことを思えば思うほど彼のがんばりを助け、励ますすべしか持たなかった。
 彼は訓練の末、1メートルしか歩けなかったのが5メートルも歩けるようになった。もっとも手すりをつかんでのことだが……。
 しかしながら、おぼろげながら彼はわかりかけてきた。たとえ5メートルが10メートルになっても、あのタクシーの窓に映る街のざわめきにはたどりつけないことを。

 時間は冷酷にも、彼の運命をのっぴきならないところへつめよっていた。翌年の春に卒業をひかえた彼には、時間が残されていなかった。
 晴れやかなはずの「卒業」という言葉が、地ごくのさけびとなって彼の頭の中を走り回る。
 「卒業したら、僕はどうなるんや!」
 彼はわらをもつかむように、この街のボランティアサークルのレクリエーションにきまじめに参加していた。

 そんなときだった、そのサークルでいつも彼の車いすを押していた一人の青年が、ある日ポツリと言った。
 「養護学校出たらどうすんねん」。
 自分がまだ言葉にすることを恐れていることを聞かれて、それでなくてもしゃべることがきらいだった彼は、その青年の言葉をごくっとのみこんだ。
 「養護学校出たらどうすんねん」。
 夕暮れの街はななめに大きくゆれ、車いすの長い影の中になだれこむ。
 養護学校の12年間が、早まわしのフィルムのように彼の目にうかんでは消えていった。
 「この12年間、ぼくは何も考えんとやってきたんやな」。

 ひとりの人間が何者かを知るために「学校はどこ?」、「職場はどこ?」と問うこの時代に、あたりまえに学ぶこともあたりまえに働くこともこばまれる、自分はいったい何者なのか。
 なぜこの街はこんなに遠いところにあるのか。
 彼はその問いに答える言葉を持ち合わせていなかった。
 どれほどの時間が過ぎたのだろう。彼は重い口を開いて、自分に言い聞かすようにその青年に言った。
 「施設か在宅や」

 もし、彼の生きてきた17年間が、彼にこんな答えしか用意できなかったとしたら、
 もし彼の12年間のがんばりが、この街でひとりの市民としてあたりまえに生きていくことを拒否されたところでくりかえされてきたとしたら、
 それは彼の問題ではなく、この街全体の問題だったのではないだろうか。
 彼の答えを聞いたその青年は、こともなげに言った。
 「せやったら、2人で八百屋でもしょうか」。

 豊能障害者労働センターはこの2人、小泉祥一と武藤芳和のこんな短い会話から生まれたのだった。
 1981年、国際障害者年1年目のこの年、当の障害者がとまどっているうちに祭りのおみこしが通り過ぎていったが、そんな中にも多くのひとびとが数々の思いちがいや失敗をくりかえしながら、障害者問題を自分の生活に位置づけた1年でもあった。
 箕面では市内の各団体と市民が集まり、「国際障害者年箕面市民会議」がその前年から活動をはじめていた。
 市民会議と出会うべくして出会い、2人の小さな決意は幾人かのひとびとの思いとつながっていく。
 あくる年、1982年4月、阪急電車箕面線桜井駅の近くの古家を借り、市民会議のメンバー、河野秀忠氏を代表として、労働センターは静かな一歩を踏み開いたのだった。
 「障害者があたりまえの市民として暮らせる給料を。障害のあるひとのないひとも共に担い、共に働く場づくりを」。
 野菜のかわりに無公害せっけんの販売を事業として始まった労働センターはその後ひとり、またひとりと仲間が加わり、多くの市民の応援に支えられ、そんな中で少ないながらも障害者が自立生活を実現していった。

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