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豊能障害者労働センター30周年
豊能障害者労働センターストーリー NO.6

細谷常彦

ブログ・恋する経済
恋する経済オリジナルTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
story.NO.2
少年とその母親が市役所のガラスのドアをみつめていた。
story.NO.3
Yさんが、労働センタ−のかたむいた戸を開けた
story.NO.4
ボブ・マーレーは、あなたにこそ歌っていた。
story.NO.5
事務所の拡大移転
story.NO.6
山田太一さんも小室等さんも、桑名正博さんも小島良喜さんも。
story.NO.7
売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」
story.NO.8
平和を願う心が自立経済を生み出す活動につながることを、ガンジーが教えてくれた。
拡大移転基金500万円基金よびかけ文 河野秀忠
1990年・念頭所感 河野秀忠
1991年・念頭所感 河野秀忠
1992年・念頭所感 河野秀忠
15周年プラス・ワンパーティー・パンフレットより 河野秀忠
さよなら二十世紀
21世紀の子どもたちへ
カレンダー
「やさしいちきゅうものがたり」
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室


さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう
はるかなはるかな地の果てに、咲いてる野のゆりなんだろう
                                      寺山修司 

 1990年、箕面市障害者事業団が設立され、一般企業への就労が困難な「職業的重度」といわれる障害者の雇用の場として事業を開始しました。
 障害者事業団は保護訓練指導する福祉的就労と一般企業への就労との谷間を埋めるため、一般企業への就労が困難な職業的重度といわれる障害者の「次善の」雇用創出を目的とされました。それを箕面市では障害者の「社会的雇用」と呼んでいます。

 箕面市障害者事業団の設立により、わたしたちの活動を市民が運営する社会的雇用の場と位置づけるための制度づくりが、箕面市とわたしたちの間で協議されることになりました。
 わたしたちはすでにその頃、一般企業への就労をこばまれる障害者が自ら運営に参加する起業集団として、わたしたちの活動をとらえはじめていましたので、「次善の」雇用の場という位置づけとはちがうものでしたが、それでも全国的にみれば先駆的な制度であることから、わたしたちもそのテーブルにつくことにしました。
 その時代、もし大阪府の作業所制度の枠に入っていればそれなりの助成があり、財政的には楽になったのですが、作業所制度は授産施設と同じように障害者を保護訓練指導する制度で、制度上はいわゆる健全者は指導員、障害者は訓練生となります。たとえ実質は対等だといっても、年月が経ち新しい仲間がふえれば、豊能障害者労働センターの宝である「共に働き、共に運営する」という運営は崩壊してしまいます。障害者スタッフを中心にそれだけはいやだ、どんなに貧乏でもこの宝物は捨てられないと、わたしたちは団結していました。

 そんなわけで助成金がほとんどない状態の中、わたしたちは日常活動と別に毎年、箕面市民会館でのイベントをすることになりました。
 渋谷天外さん、桑名正博さんとの出会いから1990年1993年まで毎年、桑名正博コンサートを開きました。
 それに加えて1992年には山田太一さんと西川きよしさんの講演会、1993年には小室等しさんのコンサートと年に2回もイベントをした年もありました。
 これらのイベントは出演者をはじめご来場いただいた多くの市民の方々のご協力により、いずれも1000人を越える盛況で、この時代の運営を助けていただきましたし、ご来場くださった方々にご満足いただけるような質の高いイベントであったと誇りにしています。
 その間に、桜ケ丘の事務所に移転して5年がすぎていました。

 5年前にこの事務所を建設する時、一抹の不安を持ったことが現実となってしまいました。この土地は市営住宅の跡地で、5年後には整備するということは聞いてはいましたが、この事務所の土地もその計画のなかに入っていて、立ち退きを求められたのでした。
 全国から寄せられた1000万円の基金でこの事務所を建設した時は箕面市障害者事業団はまだ設立されていなくて、行政的な位置づけも整理されていなかったことや、おたがいの約束事へのとらえ方の食い違いもあり、協議は難航しましたが、最終的に箕面市障害者事業団の職種開拓育成事業として位置づけられ、坊島の事務所が建設されることになりました。

 桜ケ丘の事務所でわたしたちは、多くの友と出会いました。新しい友がリュックサックから心の荷物を広げるたびに、わたしたちの地図は描きかえられました。
 世界はいつもとつぜんわたしたちの前に立ち現れ、わたしたちは混乱しながらもワクワクしたのでした。
 もし歴史がわたしたちの肉声で語られるとしたら、はるか遠い大地に立つひとりの少年のうれし涙も悲しい涙も、わたしたちのひとみからあふれることでしょう。
 そして、何億光年の時を渡る満天の星をみつめる、たったひとりのまだ見ぬ不在の友と出会う予感に心おどらせるでしょう。

 桜井の事務所が、ふきぬける風に身をかがめながら、かろうじてわたしたちの夢をかくまってくれた袋小路だったとすれば、桜ケ丘の事務所は、わたしたちの夢見る心が解き放たれ、言葉が追いつけないほどの急ぐ心とたくわえた涙、出会いと別れと希望と後悔が突き抜ける荒野でした。

 わたしたちが主催するイベントに来てくださった山田太一さんも小室等さんも、桑名正博さんも、桑名さんとともに来てくれた小島良喜さん、妹尾隆一郎さんも、そしてわたしたちも、桜ケ丘の事務所の風を心いっぱいに吸い込みました。
 あの日、あの時、わたしたちはわたしたちの今を息づきながら、その風の色とかおりに、どこかにかくれている、なくさないで!と叫ぶたくさんの声たちにつつまれていました。
 なくしてはいけない時の贈り物は、わたしたちに切ないがゆえにしあわせな未来をてらしてくれたのでした。
 毎年春には、鳴き声を練習しにやってきて、上手になったら飛び立っていったうぐいすたち。そのすぐあとに天使のように、なぜか「だいじょうぶ」とささやいてくれた鈴虫たち。
 さようなら、そして、ありがとう。

 1993年10月31日、どしゃ降りの雨の中、わたしたちは桜ケ丘の事務所と別れ、坊島の事務所に引っ越しました。

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