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新しい左手と世界の半分
館野泉と辺見庸
ブログ・恋する経済
恋する経済オリジナルTシャツ
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
ぼくのワンダーランド
助け合う勇気
海の上のピアニストと小島良喜
コジカナツルfeaturing多田誠司
舘野泉と辺見庸
19才の隠れ家
ぼくの「ミスター・ムーンライト」
Tシャツ一枚自由
子どもたちの民主主主義
松井しのぶとシュールレアリスム
松井しのぶと宮沢賢治
松井しのぶと宮沢賢治2
松井しのぶと焚き火
テレビと力道山と山田太一
人生を変えたドラマがあった
詩集1
詩集2
豊能障害者労働センター
30年ストーリー
みんなでつくる春のバザー
平和を願うメッセージ
ゆめ風基金とわたしたち
永六輔・山田太一・筑紫哲也
恋する経済のススメ
エッセイ&制度
1947年の手紙
「積木」編集分室

豊能障害者労働センター

松井しのぶのホームページ
イラストレーター・松井しのぶさんのステキなイラストと言葉に出会えます。
特定非営利活動法人
ゆめ風基金
阪神淡路大震災を機に国内外の数多くの自然災害の被災障害者への救援・支援をつづけてきた。

舘野泉(たての・いずみ)

ピアニスト。1936年東京生まれ。1960年、東京芸術大学を卒業。国際的なピアニストとして活躍。64年よりフィンランド・ヘルシンキ在住。世界各国で行ったコンサートは3000回以上。100枚ほどのCDをリリースしている。その温かく、人間味溢れる演奏は、世界のあらゆる国の聴衆に深い感動を与えている。2002年、ステージ上で脳溢血で倒れ、右半身不随となる。2年余の闘病生活を経て左手での本格的な演奏活動を開始し、音楽の新境地を開く。命の水脈をたどるようにして取り組んだ左手による作品は、静かに燃える愛情に裏打ちされ、聴く人の心に忘れがたい刻印を残す。演奏活動再開の様子を密着取材したNHKハイビジョン特集「左手のピアニスト〜館野泉ふたたびつかんだ音楽〜」が放送後大きな反響を呼ぶ。


辺見庸(へんみ・よう)

1944年宮城県石巻市生まれ。早稲田大学文学部卒業。70年、共同通信社入社。北京特派員、ハノイ支局長、編集委員などを経て、96年退社。この間、78年、中国報道で日本新聞協会賞、91年、小説『自動起床装置』で芥川賞、94年、『もの食う人びと』で講談社ノンフィクション賞を受賞。他の著書に『ハノイ挽歌』、『赤い橋の下のぬるい水』、『反逆する風景』、『ゆで卵』、『屈せざる者たち』、『独航記』、『永遠の不服従のために』など、共著に『夜と女と毛沢東』(吉本隆明との対談)、『反定義』(坂本龍一との対談)、『私たちはどのような時代に生きているのか』(高橋哲哉との対談)など。
2004年3月、講演中に脳出血で倒れ、リハビリ中に癌が発見される。2006年2月新刊「自分自身への審問」を出版。


5月は音楽三昧で、館野泉の他に、久しぶりに三上寛のライブに行き、コジカナツル&多田誠司のライブにも行った。どれも楽しいライブだったが、特にコジカナツル&多田誠司はスペシャルゲストにフライド・プライドのsihoが参加し、とても盛り上がったライブだった。実はぼくはこの頃不眠症になるほど心が弱っていたのだが、音楽は不思議なもので積み木のように音を積んではくずし、積んではくずしているうちに、ぼくのくずれそうな心も危ういながらも少しずつ元気になっていった。もちろん、一緒に行ってくれた友人たちの助けもとてもありがたかった。

1947年の手紙 2006年7月20日 細谷常彦 


 「弾けるということがひたすらに嬉しく幸せで、夢中であったように思う。六五年もピアノを弾いてきて、こんなに無心に音楽が出来るなんて想像もしなかった。弾くことに、私はよほど飢えていたのだろう。」(館野泉)

かくれていた新しい左手

 ぼくはもともと、左利きだったらしい。ペンも箸もたしかに右手なのだが、若い頃に工場で働き始めてすぐ、紐を巻いたり結んだり、部品を組み立てたりする動作がどこか同僚とちがうのに気づいた。そして、それが左利きのせいだと知った。
 ぼくが子どもの頃は左利きが嫌がられたため、右手で箸と鉛筆を持たされ、右利きにさせられたのだと思う。そういう経験を持つひとたちはけっこうたくさんいるのではないだろうか。
 いまでは左手で字を書いたり箸を持ったりはできないのだが、それ以外の動作はほとんど左利きのように思う。そして、ふと思うのだ。ぼくが右利きを演じ続けている間に、左手でできたはずの多くのことをなくしてしまったのではないかと…。

 そんなことを思いながら、ぼくは館野泉(たての いずみ)の鬼気迫るピアノに圧倒されていた。2006年5月19日の夜、ぼくは友人にさそわれて彼のリサイタル会場に出かけたのだった。
 もともとクラシックはほとんど聴かないし、3000回にもおよぶ演奏会を重ねてきた1936年生まれのピアニストのこともまったく知らなかった。そして4年前に脳溢血でたおれ半身不随となり、2年半の苦闘の日々を乗り越えて、左手だけでピアノを弾くようになったことも…。
 若い頃から活躍してきたピアニストが66才で半身不随になっても引退せず、2年半後には「左手のピアニスト」として演奏活動を再開する。それだけでも奇跡的だと思うのだが、今年70才の老ピアニストが左手だけで弾くピアノは、とても不思議なみずみずしさ、独特のリズム感、あらためて感じるピアノという楽器のなまめかしさ、音の原石から音楽を発見していくかのような切迫した緊張感にあふれていた。
 それはきっと何千回も演奏会を開いてきたはずの館野泉が、誰のためにではなく自分のためにもう一度ピアノを弾きたいと熱望し、リハビリというよりはピアノへの激しい恋の果てに訪れた至上の音楽なのだと思う。

 無粋にも彼の両手での演奏を一度も聴いたことがなかったが、おそらくいま聴いているこの音楽は、彼が両手で弾いていたピアノとはまったくちがう泉から噴出する新しい音楽なのだ。右手が欠落したわけでも、左手が残されたわけでない、どこかにかくれていた新しい左手が恋するようにピアノを弾いているのだった。
 楽曲も館野泉の左手のために作曲された曲で、音楽的冒険に満ちあふれている。館野泉が障害をもたなければ生まれなかった左手の音楽の誕生は、新しい泉から噴出し、新しい河に流れ、新しい海を広げ、いまぼくたちを強くやさしく抱きしめてくれるのだった。

 「左手のために書くのは、作曲家の誰にとっても新しい経験、苦労も苦心もあるけれど、挑戦に満ちた不思議な世界でもあります。両手の世界とは違う、もしかすると、もっと強く幅広い表現が可能な 左手のみでなければできない音楽世界 があるのかも知れません。制限が創造の可能性を狭めることはない。素晴らしいことですね。」
(館野泉「ピアチューレ」80号インタビューより)

見ていなかった世界の半分

 6月24日、大阪市中央公会堂で開かれた「辺見庸講演会−憲法改悪にどこまでも反対する」でも、おなじような体験をした。
 このひとも2年前に脳出血でたおれ、次に講演することになっていた約束を果たすために、2年の時をくぐりぬけてきたのだった。
 1500人もの人がかけつけ、異様な熱気と盛大な拍手の中で、彼はつたい歩きしながら舞台袖に近い椅子に座った。
 ぼくは「辺見庸」という名前すらろくに知らなかったのだが、いつ終わるのかと思うぐらい長い時間、いくつかのテーマをくりかえしくりかえし話す迫力に心がふるえた。
 9・11、イラク戦争、日の丸・君が代、アジア諸国への無理解、構造改革という名の万物の商品化。
 怒らないことがいいこととされ、憲法第9条の改悪にすらななめに見てしまう。細胞の中にまでつまってしまった薄ら笑いのファシズム…。
 癌が発見され、それもかなり進行していることがわかり、リハビリする意欲もなくしてしまう状況に陥った中でも、まるで心と体を逆さにして血の一滴まで絞り出そうとするかのように、彼はいま伝えなければならない言葉のひとつひとつを手渡すように必死で語る。

 「もう楽園のような平和憲法の精神にたち戻ることができないかもしれないのだ。苛烈な歴史への道に、いま入りつつある。少し焦ってきた。そうしたら、今度は癌だときた。私は再びわが身に問うている。運命の苛烈さについてではない。病がことここに至っても改憲に反対するか、と問い直しているのである。不思議だ。脳出血で死に目に遭ったときよりよほどはっきりと『反対だ!』と私は言いたいのである。」(辺見庸・著『自分自身への審問』より)

 病に倒れてから、彼は以前に見聞きした世界を今度は障害を持った者として再検証していく。元ジャーナリストの彼は、日本国内はもとより世界の悲惨な現実を見つめつづけ、諸悪を暴いてきたが、その自分自身のまなざしさえも不遜で暴力的であったことを告白する。
 そして、過去に出会った悲惨な出来事、その渦中でうごめくひとびと、時空を越えてよみがえる風景の中に「見るひと」ではなく「見られるひと」として立ち直す。
 まるで2度目の冥府めぐりをするかのように、もう一度その風景の中に自分の心をおき、ほんとうは見ていなかったもうひとつの世界の姿を必死に見つづけようとする彼がいる。
 時々ろれつがまわらなくなり、派手な演出もせず淡々とつづく彼の話にひきこまれながら、ぼくはそのことに感動していた。障害を持つことは何かをなくすだけではなく、新しい何かを発見し、得ることでもあるのかも知れない。
 「演劇は世界の半分しかつくれない。後の半分は観客がつくる」と言った寺山修司の言葉にならえば、「ひとは世界の半分しか見ることができない。後の半分は他者が見る」ということを、辺見庸は障害を持つことで発見したのだと思う。
 さらに言えば、もうひとつの半分を見る他者の存在を想像する大切さを発見したのだと思う。

 「大袈裟に言えば、いままで生きていて最も大きい思想的(あるいは詩的)変化が起きているともいえます。それがどんな変化かはうまくいえませんが、多分、悪い変化ではないと思います。他者を制するということを、たとえどんな形であれ前提しなくなりましたから。制したい、制することができる、と思わないのは断然よいことのような気がします。健常者には病者の内奥になかなか想像力が及ばないものだ――とは、実は倒れてからの実感です。」 (辺見庸・著『自分自身への審問』より)

何かをなくしただけではないことを

 障害を持つひとたちと出会い、その近くに20年ちかくいるぼくもまた、自分自身が障害をもたなければわからないことをわかったふりをしたり、気づかないまま日々を送っていることを痛感する。
 また59才になり、体のあちらこちらに少しずつ老いが訪れ、いつ病気でたおれて障害を持っても不思議ではない。
 もちろん、この2人のように稀有な才能を持っているからこその障害をもった体験が、ぼくにもすべてのひとにもやってくるかどうかはわからない。
 ひとがさまざまであるように障害も、障害の受け止め方もまたさまざまなのだと思う。
 それでもなお、だれにとってもぼくにとっても、どんな障害や病がやってきても、ひとはそのたびに何かをなくすだけではなく何かを発見することを、そして発見していくことが生きることなのだと、館野泉さんと辺見庸さんが教えてくれた。

 ぼくの体と心のどこかにも、新しい左手や世界のもう半分がかくれているのだろうか。障害を持ったとしても持たなかったとしても、それを探すことが自分らしく生きることなのかもしれない。

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