陽がまったく入らず、玄関だけがその大きさ分の光を切り抜いたような家だった。その玄関の上がり口に座る母の後ろ姿と、こちらを向いているのだがまったく顔のわからないおばさんが、なにやら話している。
ぼくのもっとも遠い記憶は、おそらく5才か6才ぐらいのそんな風景だった。
1947年、ぼくは父親のいない子どもとして、つまり「私生児」として生まれた。遠い記憶の風景を背に母と話していたおばさんは民生委員だった。
脊椎カリエスを患い2年間も学校に行けない兄とぼくを抱え、焼き芋屋をして得たわずかなお金と、タンスにもう何枚かしかないきものを質に入れて得たお金で細々と暮らしていた母子家庭に、福祉の手を差し伸べてあげようという話だったのだと思う。
実際、母は思いつめて親子心中をしようと思ったが、小さなぼくが金鳥蚊取り線香を何本もつけ、「おかあちゃん、部屋明るくなったやろ」と言うのを聞いて思いとどまったと、後々に話してくれた。
ぼくはといえば、焼き芋を売った1円札の束を見て、「ぼくんちは金持ちやな」とはしゃいでいたのだった。
母親はそのおばさんの申し出をことわった。「どんなことがあっても、福祉の世話にだけはなりたくない。子どもが肩身の狭い思いをするから」というのが彼女の精一杯の意地だったのだろう。母には「そんな無理をせんでも世話になったらいい」という声に耳を傾けることはできなかった。
また実際のところ今でも「福祉」が生存の権利を全面的に保障することがないように、そのころはなおさら「福祉」はさびしい曇り空をぐるぐるまわるだけで、けっしてぼくたちの手の届くところに舞い降りて来るはずはなかった。
母親が「世間から後ろ指をさされるだけだ」と思ったとしても間違いではなかったのだ。
戦前、大阪の繁華街で今いうカフェレストランのようなお店をしていた母は、外国船の船乗りをしていた夫が病死後店をたたんだ。
戦中の混乱と激動の時をどうすごしたのかわからないが、ともあれ戦後すぐ旅館の仲居をしていた時にぼくの父と出会い、国鉄(JR)千里丘駅の近く、いまの摂津市の長屋に移り住み、4才違いの兄とぼくを生んだ。
父は大きな農家の息子で、商売をしては失敗していたらしく、いちばん羽振りのよかった時には薬屋をしていて、20名以上はいた従業員との記念写真が言い訳のようにぼくたちの家に置いてあった。
ぼくが物心ついてからも、父は時々家に来ていた。糸巻きのつばにぎざぎざを入れ、穴の片方に割り箸のきれはしを固定し、輪ゴムを巻いてうごかすおもちゃをつくってくれたのがただひとつの思い出として残っている。
そのうち「子どもの教育に悪いから」と母は父と別れ、それっきりぼくたちの家族からは父の存在はかき消された。なんとか親子3人が生き延びるために、母は焼き芋屋からうどん屋、一膳飯屋と商売を変えていくことになる。
それはどんなに貧乏でもお店の残り物で食いつなぐことができるという、母の必死の計算があったのだった。
そのうちに蒸発してしまった叔父の家族が母を頼ってきて、しばらくは同居していたが六畳と四畳半の家では長くは続かず、お店の奥に六畳を建て増し、ぼくたち家族はそこで暮らすことになった。
屋根には瓦も積まず、壁は薄い板一枚で節穴から外が見えた。冬は寒く夏は暑いバラックで、親子3人が身を寄せながら暮らしていくために、母は長い間、近所の工場のひとたちを相手に朝は6時から夜は深夜の2時ぐらいまで、片手に盛る薬の山を飲みつづけながら、お店をひとりで切り盛りした。
10年前、母は死んだ。その朝、「ふっー」と一息ついた母のひとみが汚れた茶色から透明な青に変わった瞬間、ぼくは死んでいく母をだきしめ、「ありがとう、ぼくを生んでくれてありがとう、ぼくを育ててくれてありがとう」と言った。
バラックの店、鉄条網とガード下と原っぱと牛馬とメリケン粉と麦飯…。ドッジボールと日光写真とべったんと缶けりと、長屋の前に整列する七輪のいわしのけむり…。ぼくだけの子ども時代の伝説になった風景が涙となってとめどなくあふれた。
きよしこの夜
そんなぼくの子ども時代は貧乏だったが自由でもあった。界隈にお金持ちはほとんどいなかった。父親がいないぼくの家族がまわりからどう見られていたのかよくはわからないが、まわりの家族たちもそれぞれの事情をかかえていたのだと思う。
もちろん、いまもまだなくせないさまざまな差別がたくさんあっただろうけれど、幸運にも長屋をはじめ、まわりのどの家族もぼくたち家族に親切だった。生活の苦しさや個々の家族の事情が大人たちにあっただろうが、そんな事情をぼくたち子どもが読み取れるはずもなく、貧乏であることが普通だった。
めまぐるしく走りぬける時代の風景はいつも青い空につつまれ、ぼくたちもまた貧乏とともにやってきた戦後民主主義の原っぱをかけめぐったのだ。
しかしながら、時代のスピードは大人たちだけでなく、ぼくたち子どもの頭上をけたたましく通り抜けていく。
1953年にはじまったテレビ放送は1960年には一部カラー放送になる。その間に1万円台の月給は2万円台になり、真空管はトランジスタになり、力道山のテレビ放送を金持ちの家で見ていたぼくの家にも、中古の白黒テレビがやってきた。
町はまだかろうじて黒い土を残していたが、ぼくたち子どももまた、そんなに単純には貧乏であることも自由であることも許されなくなりつつあった。
それぞれの家の事情がぼくたちをひきはなし、つながれない悲しみとつながることを切なく求めるひとみを持つ子どもになっていった。
小学4年生から6年生まで、日曜の夜に英語を習った。ぼくたちの町にやってきた「洋行帰り」のきざな紳士が、町の青年団の寄り合い所を借り、無料で子どもたちに英語を教えてくれることになったのだ。
来る者こばまずという無料の英語塾だったが、懐中時計を持ち、名探偵ポアロか赤塚富士夫の漫画に出てくる「いやみ」にそっくりのへんな怪人だったため、集まってきたのはぼくとぼくの友だちをふくめて10人ぐらいだった。
いつのまにか、ぼくはその塾に通うのをとても楽しみにしていた。風貌とはうらはらにとても暖かくやさしいその人は、ぼくたち子どものどんな事情も呑み込み、ひとりひとり、それぞれの未来が輝けるものであることを願って無償のボランティアを自らかってでたのだと思う。
子どもたちの様子をうかがい、それとなく気を配り、懐中時計に時々目をやりながらいろいろな話をしてくれた。クリスマスにはぼくたちひとりひとりにプレゼントを用意し、「きよしこの夜」をみんなで英語で歌った。この歌はぼくが最初に覚えた英語の歌になった。
それから約10年後、ぼくが20才になった頃、ぼくはその町を離れていたが、彼は市会議員に立候補した。その選挙は彼がリヤカーに乗り、英語塾の歴代の教え子がリヤカーを引いては辻々で演説するというものだった。
見事に当選し、何期か市会議員をしていた彼は、1回もかかさず市議会の様子を達筆の墨字で書き、町のいくつかの場所に張り紙をした。
無党派で今でいうほんとうの「市民派」議員として活躍した彼が英語塾をしたり市会議員をしたのは、ほかならぬ町の未来をつくるのは市民自身であるという、いまぼくが切実に感じる心情からだったのだと思う。
ぼくたちの町に、電器製品の修理をしていた「どものおっちゃん」がいた。どぶ川の上に建てたバラックで、ひとり住まいだった。大人たちの話によると、どもりがひどく、仕事につけなくて嫁さんに逃げられたらしい。
電器製品がまだ全国に行き届いていなくて、ほとんどのひとたちはまだ新品を買うことはなく、彼はどこからか手に入れてきたこわれたラジオなどの修理品を売ったり、またそれらの修理を引き受けて生計を立てていた。
ぼくの家にはじめてやってきたラジオも、「どものおっちゃん」から280円で買ったものだった。
実は、ぼくもまたどもりだった。ぼくにとって父親がいない不運などどうでもいいぐらい、どもることを悩んでいた。どもることで自分の進路をかえたこともあったし、その悩みは結局いまでもひきずっている。だから、「どものおっちゃん」のことが話題になると、ぼくのことを言われているみたいでとてもいやだったし、かかわりたくなかった。
そんなぼくだったが、ラジオがこわれて、一度だけ母に頼まれて修理をしてもらいにおっちゃんの家に行ったことがある。
六畳あるかないかの一部屋だけの棚に真空管や小さな部品がつめこまれ、布団らしきものがどす黒く外の光にさらされていた。彼がどもりながら必死で故障の原因をしゃべっているのだが、ひどいどもりでぼくにはぜんぜんわからないのだった。
「どものおっちゃん」と、どもりのぼくとの会話、そのときの切なさは逆光に浮かび上がるおっちゃんのシャツと短いズボン姿の輪郭とともに鮮明に覚えている。
280円のラジオはそれから数年のちに中古のテレビがやってくるまでは、我が家の宝物だった。一息つく暇もつくらず必死で働きつづけた母だが、三橋美智也の歌が掛かるとラジオの前に耳をかたむけるのだった。
時々「キューイン」という風がふきすさぶような音に三橋美智也の歌は一瞬かき消されたが、またどこからともなくやってきた雑音とともに聴こえてくるのだった。
時々、このラジオからジャズやブルースが流れることもあった。母はもちろん、ぼくにもその音楽のよさを知るにはまだ何十年もの時が必要だった。
どこか途方もない世界の果てからはるばる海をわたり空を駆け抜け、中古の真空管の回路をすりぬけてきた不思議な音楽は、1枚へだてた外の光が節穴を通して入り込むバラックの空間に居場所をみつけたように、なつかしくしみこんでいくのだった。
実は「どものおっちゃん」はそれほどくわしい電気の知識がないアマチュアのラジオマニアで、本を読んだり電器屋の見よう見まねで電器製品を修理再生していたらしい。実際修理をたのんでもすぐにこわれ、「やっぱりあのおっちゃんにたのんでもあかん」と、よく大人たちは言っていた。
それでも、なぜか「これぐらいの修理やったら」と、「どものおっちゃん」のところにこわれたラジオなどを持っていった。今思えば、そんな風にしてみんなが彼の生活を支えていたのだった。
そのすぐ後にものすごいスピードでテレビ、洗濯機、冷蔵庫、いわゆる「三種の神器」が広まり、彼もテレビの修理をはじめたものの知識がともなわず、やがて町を去って行った。
助け合う勇気
ぼくがこんな昔話を書いたのは古きよき時代をなつかしむためではない。ぼくだけのワンダーランドの数々のエピソードをつらぬくたったひとつのキーワードは、「助け合い」ということになる。
たしかにこの時代からグローバルな現代まで、ぼくたちは時代に取り残されまいと必死にしがみついてきたが、一段と加速度が増す時代を越え、ひとは結局シンプルに助け合う勇気を持ち合わせているのだと確信する。
そして、時代が経済が政治がスピードを求めれば求めるほど、時には激しい叫びとして、時には切ない歌として、時にはゆるやかな風として、時には立ち止まる夢として、だれかに手を差し伸べたり、だれかの力を借りたりできることこそ豊かなことなのだと、ぼくたちは気づきはじめている。
たとえばぼくたちのリサイクル事業は品物を提供してくれるひとの気持ちとぼくたちの気持ちと、品物を買ってくれるひとの気持ちがつながることで成り立っている。
その小さな市場(いちば)を流れるお金は、グローバルな市場から迷い込んだとたん、「にんげん」の顔を持ったお金として、ワンダーランドの幾多のエピソードを語る詩人となり、ひとびとの願いや希望の歌となるのだ。そんな市場(いちば)をつくりだすことが、ぼくたちのソーシャルビジネスであることに気づいたとき、50年まえにぼくが体験した伝説は、実はそのことをいまぼくに教えてくれているのだと思う。