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ぼくはその店でボブ・ディランの「時代は変わる」を聴いていた
19才の隠れ家

ブログ・恋する経済
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ぼくがTシャツをはじめて着た時 2001年5月 細谷常彦 


たとえば青春は
暗い路地を走り抜けた後に広がる青空
廊下に出るその一瞬に部屋に残した風
飛び乗った列車の窓から行方不明になった
もうひとりのぼく
長い時間を貯金した忘れ物の傘のように
たとえばそれがぼくの青春
長い非常階段の踊り場で
行方不明のぼくたちが手をふっている
洗いざらしのTシャツを着て
街に出て映画でも見に行こう

まばたきをするだけで世界は変わる

 その日は市民酒場「えんだいや」でアルバイトをしているエミちゃんの19才の誕生日だった。夜もふけてお客さんも帰り、集まってきたアルバイト仲間のノンちゃん、イオリくんと、シズコさんとぼくで、ささやかなお祝い会がはじまった。
 そこにふらっと現れたタクシー運転手で、調理場の助っ人のウエダさん。19才の3人と、50才をこえた3人の奇妙な会話がはじまる。
 若い3人の顔を見直すと、いつのまにか大人の顔だ。若さはたしかに時を追い越していくのだ。時速300キロで走り抜けた後に取り残されたものだけが、見果てぬ夢と思い出になる。

 1966年、ぼくは19才だった。廃墟のような校舎、鉄製の古い窓。いい思い出などひとつもない高校を卒業し、同時に家を出て、友だちと共同生活をはじめた。母と兄の3人暮しからの脱出だった。
 就職した建築設計事務所も、やめることしか考えていなかった。覇気がなく陰気で、若さや青春などとは程遠く、大人たちにもっともきらわれるタイプの人間だったし、ぼくもまた大人たちが大きらいだった。
 時代は70年安保闘争にいたる学園紛争と政治の季節だった。でも社会に順応できないぼくは、ただ、隠れ家がほしかった。

 そんなある日、「オー・ゴー・ゴー」という店を知った。大阪梅田の歓楽街の細い路地を入ると、その店はまさに隠れ家のように立っていた。船室をイメージしてつくられた細長い店内は薄暗く汚くて、天井には網がめぐらされていた。
 入り口に近いほうにテーブルが並び、真ん中は踊れるようになっていて、その奥にも少しテーブルがあった。両側の壁の途中のくぼんだ空間ではぼくと同年代の男と女が抱き合い、キスしていたり、「クスリ」を飲んでラリッていた。
 雑音の多いスピーカーから、ビートルズやモンキーズ、そしてボブ・ディランがよく流れていた。ぼくはその時はじめてボブ・ディランの名曲「時代は変わる」を聞いた。

 その店の常連たちに最初は少し警戒されたかもしれないが、ぼくはその店がとても好きになってしまった。仕事が終わると駅のトイレで服を着替え、友だちと待ち合わせて毎晩その店に通った。
 ちょっとよごれたTシャツに綿パン、くたびれた長めのコートに着替え、当時流行った「ドノバンハット」を斜めにかぶり、背広を麻袋に突っ込むと、いそいそとその店に向かうのだった。
 音楽が流れると、気の向いた数人が踊りだす。後に現れるディスコやクラブなどとは、雰囲気がまったくちがっていた。それはフランス映画で、喫茶店やレストランで突然だれかが踊りだす、そんな感じなのだ。
 いっしょによく行ったシズコさんは、ドラムも入らず、踊るには向いていない「時代は変わる」で踊っていた珍しい人だったが、不思議に彼女が踊りだすといっしょに踊る人たちもいた。踊れないぼくはコーヒーをたのみ、何時間でもねばっているのだった。

 ある夜、スーツを着込んだ数人の若者が店にやって来た。「みなさーん、今日東京で仕込んだばかりの新しいステップです。いっしょに練習しましょう」と明るく言った。いつもは自分の踊りしかしない人たちだったが、みんなで「新しいステップ」を踊りはじめた。
 「ハーイ、イチニ、サンシ、イチニ、サンシ、ターン」と、東京帰りのスーツの若者数人を囲んで、Tシャツとジーンズの若者大勢で踊っている姿は、とてもこっけいで、ほほえましかった。
 シズコさんは、「みんなで同じ踊りをするのはまっぴらよ」と参加しなかったが、ぼくにはみんながとても「いいひと」に見えた。

 対人恐怖症のぼくにでも、そのうち彼らのうちのだれかが話かけるようになった。ある夜、夜明け近くまで話し込んだ女の子がいた。どんな話をしたのか思い出せないが、陰気なはずのぼくの話がなぜか面白かったらしい。
 「そのズボンのすそ、あんたが縫ったん?」「そうや」と答えると、彼女は「ユニークやなぁ」と面白がった。ズボンのすその縫い目は、ぼくのへたくそな手縫いで、しかもベージュの生地に黒い糸で縫ったものだった。
 「今日、泊まるとこあんの?」と彼女は聞いた。「友だちと住んでる」とぼくは言った。「泊めてくれへんか」と彼女は言ったが、断った。
 店が閉まったあとも、2人で梅田の街を歩いた。もう、夜が明けそうな夏の都会は、昨日の後始末と明日の準備が入り混じり、静けさと騒々しさが同居していた。
 大阪駅前の陸橋で彼女と別れたが、その後その店で彼女と会うことは2度となかった。彼女に限らず、その店に来る人たちはいわゆるはぐれ者風で、ヤバイひとたちもいた感じなのだが、どこかみんな人なつっこい若者だった。
 ぼくはといえばそんな人たちにも受け入れられるはずはないのだが、それでもその人たちがたむろしているその店にいると、とてもリラックスできた。

 そしてある夜、とつぜん店員が「みなさん、警察の手入れです。すぐに逃げてください」と叫び、同時に店の明かりが消えた。ぼくは別に逃げる必要はなかったのだが、とにかくみんながすごい勢いで飛び出すのにつられ、一目散に逃げた。
 あくる日に行ってみると、もう店はおしまいになっていた。その店に半年通ったのか、一年通ったのかは思い出せない。ぼくの隠れ家は、こうしてなくなってしまった。
 どう考えてもいかがわしいお店だったが、ぼくの絶望的な19才をかろうじてつなぎとめてくれた店だった。
 あの時のだれともほんとうの友だちにはならなかった。だが、ぼくに青春と呼べるものがあるとしたら、だだをこねるだけだった少年が自分で人生の一歩を踏み出すまでの少しの時間をくれた、幻の店「オー・ゴー・ゴー」の中にある。
 あの時、いっせいに店から飛び出して行ったひとたちは、どこへ行ったのだろう。そして、いまどこでどうして暮らしているのだろう。

 ぼくはその後、建築設計事務所をやめ、ビルの清掃をはじめた。1970年に向かって街はますます騒然としていた。夜の掃除を終えて御堂筋に行くと、学生のデモ隊と機動隊がにらみ合い、機動隊の盾とこん棒で学生がたおれる、そんな日々が続いていた。
 同年代の学生たちに心情的には賛成なのだが、どうしても参加するところまでは行かなかったのは、一方で、あの「オー・ゴー・ゴー」にたむろしていた若者たちもまた1970年代をたしかに生きていたのであり、ぼくもまたそのひとりだったからなのだと、今では思う。

 こんな思い出話を書いていると、ぼくがはじめてTシャツを着たのは19才だったことに気づく。薄い生地一枚でぼくのからだをつつんでくれるTシャツは、その後もぼくがつまづき、惑いながらも生きてきた長い旅の親友だった。
 不思議なめぐりあわせで、豊能障害者労働センターがオリジナルTシャツを製作販売することになった。
 たった一枚でもいい、ぼくたちが製作するTシャツが19才のあの時のように、着てくれたひとを「だいじょうぶ」とやさしくつつみ、そのひとの人生の親友になってくれることを願うばかりだ。

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