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ビートルズがやって来る
ぼくの「ミスター・ムーンライト」

ブログ・恋する経済
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 今では10万人コンサートもあたりまえだが警察がファンを6000人も補導することはない。それだけビートルズ旋風がすごかったとも言える。
 武道館がコンサート会場として利用されるのもはじめてで社会がなれていなかっただけとも言えるが、その年の8月に出版された竹中労の名作「ビートルズ・レポート」が正しく報告したように、来るべく安保闘争、学生運動に対する予行演習だったこともたしかなことなのだ。

ぼくがTシャツをはじめて着た時 2004年9月21日 細谷常彦 


 映画「69 Sixty Nine」を見た。1969年当時高校生だった村上龍の自伝的小説を映画化したものだ。
 激動の年だった1969年、潜水艦エンタープライズの寄港で騒然とした長崎県佐世保。高校生ケン(妻夫木聡)は、憧れの同級生レディ・ジェーン(太田莉菜)のハートを掴みたいがゆえに仲間のアダマ(安藤政信)、イワセ(金井勇太)たちと、映画と演劇とアートとロックが一体になったフェスティバルの開催をぶち上げる。
 同時に、成り行きから学校のバリケード封鎖を実行し、ついには警察沙汰になる。くったくのない、ただ突っ走るだけの彼らの青春は、1969年という時代に意味付けをせまられていく。
 1969年を知らない若者たちがつくったこの映画の評価はさておき、57才にもなるのに妻夫木聡のファンのぼくには充分楽しい映画だった。
 けれどもぼくがそうであるように、1960年代に特別な思いを持つ人々にとっては単純に青春映画として受け取れない「1969年」があるのだと思う。

 ぼくの13才から22才までの60年代は心も体もほてりつづけ、親兄弟や教師や友だちときずつけあうことでしか「自分が何者なのか」を確認することができなかった。せつなくもかなしく、それでいて無条件にわかりあえる友を求めて街に出て行く、そんな10年だった。
 1966年、ぼくはいい思い出などひとつもない工業高校を卒業した。生まれたときから父親がいず、母が飯屋をしながら兄と僕を育ててくれた。
 「高校だけは行かせたい」と必死に働きつづけた母のおかげでやっと高校に進学できたのだが、母には申しわけないがどうしても専門課程の勉強に興味を持てなかった。
 なんとか卒業して大阪中之島の朝日新聞ビル近くの小さなビルにあった建築設計事務所に就職すると同時に家を出て、友だちと共同生活をはじめた。母と兄の3人暮しからの脱出だった。

 そして6月29日、ビートルズが日本にやってきた。1960年代は政治の時代でもあったが、同時に自由と平和を求める世界の若者たちが音楽、アート、ファッションなどすべてのジャンルで行動を起こし、次々と自分たちの新しい表現を生み出していった時代でもあった。
 ビートルズはその象徴で、「ビートルズ革命」ともいわれた。
 「ビートルズがやって来る」ことを、日本の大人たちは極端に嫌がった。警察は3万5000人の警官を配備し、全国各地の教育委員会は生徒がコンサートに行けば退学処分にすると通達した。
 テレビでは識者、文化人が「ビートルズ帰れ」の大合唱だった。

 7月1日、ビートルズ公演がテレビで放送された。友だち3人と大阪市岸里のアパートで共同生活をはじめたぼくたちにはテレビがなかった。
 ぼくたちの子どもの頃プロレスや相撲などの国民的番組のときはテレビのある家が部屋を開放する習慣があり、その名残りでアパートの大家兼管理人の部屋におじゃました。
 放送が始まるまでの間、管理人とその子どもの中学生はぼくたちの横でさんざんビートルズの悪口を言った。しぶしぶ好意を示してみたものの、世間の雰囲気そのままに、ぼくたちへの悪意をちらつかせてはビートルズの悪口を言うのだった。
 ぼくたちは正座し、息を潜めて楕円形のブラウン管を見つめていた。

 そのときだった。「ミスターー、アァアァアア、ムーン、ラァーーイッ」。張り裂けるようなジョン・レノンの声がブラウン管から飛び出た。その叫びは部屋のよどんだ空気を一瞬にして破り、ぼくたちの心に鳴り響いた。
 文句たらたら言っていた管理人親子も思わずだまってしまった。台風で到着が遅れ、羽田空港にハッピ姿であらわれたビートルズが警察の厳重な警戒のもとで特別車に乗せられる。
 彼らを警備するというより護送するように深夜の高速道路を走る車を追いかけて、その曲「ミスター・ムーンライト」が流れたのだった。

 実はそのころのぼくは友だちほどビートルズが好きでもなかったし、映画は洋画よりは東映の時代劇、歌は三橋美智也と美空ひばりと畠山みどりと坂本九と奥村チヨで、外国の歌なんか興味がなかった。
 そんなぼくの頑固で保守的な心の殻を、ジョン・レノンはたった一声で破ってしまったのだった。きっとぼくだけでなく、あの瞬間にビートルズ・ファンになってしまったひとがたくさんいると思う。
 1万人の少年少女の絶叫で武道館の内外が騒然となる中、ビートルズのたった30分のコンサートがはじまり、終わった。コンサートは6月30日から7月2日までの3日間に5回行われ、約6000人の少年少女が補導された。

 いまふりかえってみると大人たち、すなわち国家は少年少女たちの絶叫や悲鳴へのおびえと恐怖から、あの異常なまでの過剰警備を断行したのだと思う。
 自由、反逆、平和、青春……。政治活動にはおさまらない魂の叫びはブルース、リズム&ブルース、ロックンロールと形を変えて世界中に広がっていた。
 その波が日本にも押し寄せ、「軽薄で無思想で、たかが不良の音楽」が社会体制を脅かすことを深く知っていたからだと思う。
 実際のところ、政治活動に参加することもしなかったぼくにとって、「インターナショナル」より「ミスター・ムーンライト」の方がはるかに破壊的で革命的だった。

 その2ヶ月後、ぼくは勤めていた設計事務所をやめた。その日、中之島公園の公衆便所に入ると、壁には「日帝打倒・安保粉砕」とエッチな落書きに混じって、「ビートルズ・フォー・エバー」という文字が赤くにじんでいた。
 それからぼくは人生の転機のたびにこの歌を思い出しながら、いつのまにか障害者市民運動の一員として活動するようになっていた。
 そしていま障害者が参加するソーシャルビジネスという、まだほとんど理解されない運動を豊能障害者労働センターをはじめとするいくつかの団体と進めようとしている。
 その中で松井しのぶさんのご協力により、「月のメルヘンTシャツ」を制作することになり、およそ40年近く前、ぼくの人生を一瞬にして変えてしまったこの歌との出会いがよみがえった。
 そしてもうずっと前に死んでしまったジョン・レノンの叫び声が2004年のよどんだ空気をもう一度引き裂くのを、たしかに僕は聴いたのだった。

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