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Tシャツ一枚分の自由
そこからもう一度、旅をはじめたい。

ブログ・恋する経済
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ビルの清掃をしていた頃、サルトルの「存在と無」をぼろぼろになるまで読んだ。
 「対自とはあるところのものであらず、あらぬところのものである」という、語呂合わせのような文句をお経のように唱えていたが、ほんとうにはなにひとつわからなかった。
 ただ、ビルの清掃をしながら世の中の隠れ家にひそんでいたその当時のぼくに、なぜか「存在と無」はあっていたのだと思う。
 ビルの地下二階の階段でこの本を読みながら、いつかこの本を捨てて、街の路上に出なくてはと思っていた。
 事実この頃、御堂筋の地下鉄本町駅から外に出ると、機動隊と学生が遠くはなれてにらみあっていたこともあった。


 「国を守る努力なしに平和は守れない」とか「国際貢献をしないで自分の国だけが平和であることはゆるされない」という時、しかしながら国を守り平和を守る手段は武器を持つことなのだろうかと思う。
 世界では国家を守るために国民を殺してしまう悲しい歴史が今も繰り返されている。
 アフガニスタンの貧困な人々への支援をつづけるペシャワール会の中村医師はこう証言している。
 「日本人だから命拾いをした、助けてもらったというのも、憲法9条のおかげです。」「丸腰の強さを現地にいると痛感します」(「憲法を変えて戦争へ行こうという世の中にしないための18人の発言」岩波ブックレットNO.667)

ぼくがTシャツをはじめて着た時 2006年5月 細谷常彦 


サルトル、マルクスならべても
明日の天気は変わらねえ
やくざ映画の看板に、夢は夜ひらく
                            「夢は夜ひらく」(三上寛)

 今年もまた、春夏Tシャツを製作した。今年のテーマもひきつづき「平和」とした。
 ぼくの生まれた1947年、日本国憲法が施行された。ぼくは日本国憲法とともに育ち、大人になり、年をかさねてきたことを実感する。
 空襲で焼け残ったままの建物、アメリカ兵が乗るジープ、メリケン粉と呼んだ小麦粉の配給、牛や馬やロバが黒い道に残すコッペパンのような糞、圧倒的な貧乏とどこまでも広がる青空…。遠い記憶をたぐりよせれば、そこは荒野。自由と民主主義と平和はそこから生まれ、ぼくもまたその荒野で生まれた。

 戦後60年をへて今、憲法改正が政治のテーブルにのることが現実味を帯びる中で、あらためてぼくと憲法が同級生なのだと思った。
 ぼくの感じ方、考え方、行動すべてに色濃く影響を与えたはずの「戦後民主主義」と憲法が問われるのなら、ぼくもまた自分の人生を検証することで時代の風景を描きたいと思った。
 個人は時代の全体像を個別な事情の中で実現していくのだから…。
 ぼくにとってTシャツとはそんなぼくが参加してきた時代のキャンバスでもあり、自分の人生がそこからはじまったもうひとつの荒野でもあった。
 Tシャツ一枚分の荒野、Tシャツ一枚分の青空、Tシャツ一枚分の自由、そこからもう一度、旅をはじめたい。

 1970年4月10日、ビートルズが解散した。思えばビートルズがラジオから聞こえてきたのは中学生の時だった。それまで歌謡曲しか聴かなかったぼくが、10年の間にビートルズのファンになっていた。
 高度成長、ベトナム戦争、安保闘争、東京オリンピック、アメリカ公民権運動など、世界も日本も激動の時代だった1960年代を、ぼくは同世代の学生運動にシンパシーをもちながらも、パッとしない青春を悶々と過ごしていた。

 ぼくの1960年代は、いわば逃げつづける10年だった。社会性のかけらもなく、どこにも隠れ家がないのにそれでも隠れ家を探し続ける貧乏でどもりで私生児の少年は、いままでもこれからもこの町もよその町も、いいことなどなにひとつないと思っていた。
 世の中すべてから脱出したかった。それも当時流行ったヒッピーなどとちがい、ただ自分という存在を消しごむで消してしまいたかった。
 学生運動に没入していた大学生の友人もいて、徹夜で議論することもしばしばあったが、みんな妙に元気で、それにひきかえぼくには覇気というものがなかった。

 彼らの口癖だった「帝国主義打倒」、「人民解放」、「革命勝利」といった言葉はよどんだ夜の空気にゆらゆらするだけで、ぼくの心を動かすことはなかった。
 彼らが熱く語る「革命」が勝利に終わったあと、多くの「人民」がしあわせになるはずだったが、ぼくのところまではその「しあわせ」がやってこないだけでなく、その「人民」たちにとってぼくは排除されるべき人間とされる確信があった。
 学生でもなく労働者でもなく人民でもなく、のちに登場する市民にもなれそうにないこのぼくはいったい何者なのか、何者になれるのかと絶望的に思っていた。
 それでもぼくは、今のぼくに助けになることをいっぱい教えてくれた彼らに感謝している。彼らなりに真実を伝えようとする言葉の裏にある夢見る心はとても純情で希望にあふれていて、陰気でなんの行動も起こさないぼくをはげまし、生きる勇気をくれたのだった。

 ぼくにジョン・コルトレーンを教えてくれた山口県出身のIさん。お元気ですか。
 「腰が重いけれど、いつか君も立ち上がるときが来るよ。」と言ってくれた、京大ノンセクトラジカル・銀ヘルのIさん。
 君の言葉に応えられたのかどうかはわかりませんが、ぼくはそれから約15年もたって障害者運動のひとたちと出会い、学び、今もまだ見果てぬ夢を見つづけています。
 障害者がほんとうの意味で「市民」になるために、これからも時代をこえて踏み分けて行かなければならない荒野の真っ只中を、ぼくもまた何者でもないまま静かに進んで行きたいと思います。
 もちろん40年のときをすぎてもなお、ぼくには行方がわからないあなたたちの夢もまた、ぼくの大切な宝物なのです。

 1970年4月10日、ビートルズが解散した。ビートルズが解散するほんの数日前、羽田空港発の日航機「よど号」が、飛行中に日本刀や爆弾で武装した9人の赤軍派にハイジャックされる事件が起きた。
 被害者の方々には申しわけないが、ぼくの中でよど号事件とビートルズの解散は切り離せず、解散の直前に発売された実質上最後のアルバム「アビーロード」の一曲で、ジェット機の轟音が流れる「アイ ウォンツ ユー」を聞くと反射的によど号事件を思い出す。
 僕はその時、友人数人で須磨の海岸に行った。今から思えば滑稽だが、ぼくたちはみんなで大きな石を海になげて、ビートルズの解散をぼくたちなりの儀式で見届けたのだった。
 その滑稽な儀式はビートルズへの別れだけではなく、ぼくの1960年代への別れでもあった。妻と結婚し、それから18年も働くことになった工場勤めをすることになる。
 それはちょうど学生運動をしていた大学生が社会に出て行くのと時を同じくしていて、ぼくもまたへたくそなりにも社会に順応するための努力をはじめなければならなかった。
 さびしくもあったしなぜかかなしくもあったが、同時によくも悪くも大人になろうとする自分を認めるもうひとりの自分がいた。
 そして、ぼくは三上寛の歌と出会う。ビートルズ以後、ぼくはこの人の歌に長い間支えられてきた。

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