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ぼくの人生を変えてしまったテレビドラマがあった。
2001年山田太一講演会に寄せて

ブログ・恋する経済
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ゆめ風基金とわたしたち
箕面市障害者雇用制度と豊能障害者労働センターが朝日新聞に紹介されました。2011/6/27
ぼくの「上を向いて歩こう」
永六輔さんNO.1
6月22日、永六輔さんが現れた
永六輔さんNO.2
「だいじょうぶ!永六輔ひとり応援団」  永六輔さんNO.2
テレビでなじみの声が聞こえた。
筑紫哲也さんのこと
1999年筑紫哲也トークイベントに寄せて
静かで、決してゆるがない決意
小室等さんのことNO.1
まるで風の又三郎のように
小室等さんのことNO.2
「歌う」のではなく「語る」歌
小室等さんのことNO.3
ゆめ風基金応援歌CD
小室等さんのことNO.4
ゆめ風基金応援歌CD
「風と夢」、「伝えてください」
ゆめ風基金応援歌CD
参加ミュージシャンのメッセージ
彼女が歌い始めると、空と大地が広がっていく。加納浩美さん
山田太一さん
山田太一1992・2001
ひとびとの「きもち」がやってくるぞ!
河野秀忠
「なにげない」が崩れたとき、見えてくる 牧口一二
テレビと力道山と山田太一
人生を変えてしまうテレビドラマがあった。
山田太一のドラマはフィクションで終わらなかった。
山田太一ファン・メッセージ
「車輪の一歩」を観て
山田太一ファン・メッセージ
「シルバーシート」を観て
山田太一ファン・メッセージ
もっともっと山田太一
山田太一さんとの対談を終えて
牧口一二
物静かに箕面市民会館に現れ、物静かに箕面を去って行った。
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今年のはじめ、大阪心斎橋で「寺山修司展」があり、2回も行ってしまった。寺山修司が死んだ時、ぼくの「青春」とよべる荒野をなくした気がした。それから寺山修司が残したたくさんの本をもう一度読み、若い頃にわからなかった文章もよく理解できるようになった。
 寺山修司から山田太一という1本の線は、2人が大学時代の友人だったこと以上に、ぼくの心のもっともやわらかく無防備なところにつながる赤い糸だ。
 展覧会で買ったCD−ROM「寺山修司の迷宮大世界」に収録されている山田太一のインタビューや、寺山修司が死ぬ2、3ヶ月前に放映された「早春スケッチブック」(1983年)の時間になると、寺山修司は仕事をやめ、ドラマを見ては山田太一に電話していたことなどを知ると、ぼくのそんな思い入れもあながち的はずれでもなかったのだと感じる。

ゆめ風基金とわたしたち  2001年4月 細谷常彦

 
 
もうすぐ、引越しする。同じ箕面市内で妻の母親と同居する予定なのだが、ご本人は北大阪急行の緑地駅の近くに大きな家があり、今のところ箕面に住む気はないと言う。
 ただ、本人の気持ちとは別にひとり暮らしが危ないことも事実としてあり、同居できる家にぼくと妻がまず引っ越して、それから本人をなんとか説得しようというわけだ。
 今の家はかれこれ20年住んだ思い出深い家だ。娘が小学4年生、息子が3年生の時で、その頃ぼくはまだ会社づとめをしていた。それからすぐ妻が労働センターに入り、ぼくも1987年に会社をやめて労働センターのスタッフになった。
 子どもたちはそれぞれ家を出て、ぼくの母親がちょっとの間同居したが、すぐに死んでしまった。昨年、妻は労働センターをやめ、市民酒場「えんだいや」の専従になった。ぼくとぼくの家族の歴史がこの家にはある。

 ぼくは何回も引っ越した。摂津市千里丘の家を高校卒業後すぐに出て大阪の岸里に住んだのを皮切りに、吹田、蛍池、服部、川西、豊中と移り、箕面に引っ越してきたのだった。
 1997年12月3日、土曜日。その日は川西の家から豊中に引っ越すため、ぼくは朝から必死で準備をしていた。子どもはまだ小さく、妻はまだ仕事をしていなかった。
 夜の9時すぎに、電話のベルが鳴った。友人の加門君だった。「細谷。引越しの準備大変やろ。明日行くわな。『男たちの旅路』見てへんやろ」。
 その夜は山田太一の「男たちの旅路」第3シリーズの最終回「別離」を放送していたが、引越しの前の日で見れるはずがなかった。
 「こうなってな、あーなってな、桃井かおりが死んでしまうねん」と、筋書きを電話で話す彼の親切はありがたいが、「俺は見たでー」という優越感のようなものを感じ、「こんちくしょう」と思ったものだった。
 「高原へいらっしゃい」、「さくらの唄」「岸辺のアルバム」…。この頃は各局でよく山田太一のドラマがあり、ぼくたちは「山田太一のドラマを見たか」が合言葉になっていた。

 ぼくが高校の時からファンだった寺山修司の本「書を捨てよ、街に出よう」に、大学時代の山田太一との往復書簡があった。その時はじめて山田太一の名前を知った。
 そして1972年、NHKの朝のドラマ「藍より青く」が、はじめて見た山田太一のドラマだった。それから「脚本・山田太一」と書いていないかと、新聞のテレビ欄を見るようになった。
 19才から23才まで、最初に就職した建築設計事務所を半年でやめてビルの清掃を3年、その後ぶらぶらしていた時代にもっとも気になる人間は寺山修司だった。
 どもり、「私生児」、ヒッピー、孤独…。ほんとうは社会や他人と関係を持つことが怖いだけだったぼくに、寺山修司はたった3分の歌謡曲や雑多な巷から思想を語り、自分らしく生きる勇気を教えてくれた。
 そして70年、世の中の喧騒がおさまるのと同時に、ぼくの青春は終わる。それから会社勤めをし、結婚し、子どもが生まれ、ぼくにも家族ができていく年月に、もっとも気になる人間となったのが山田太一だった。

 山田太一が描く日本の高度成長期の家族は、決して幸せではなかった。というより、期待される幸せな家族像が、山田太一のドラマにはなかった。
 「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」に代表されるように、ドラマの最初の幸せな家族像はすぐに崩壊してしまう。
 「わかってくれる」と思い込むことが家族のひとりひとりを傷付けていたことを知らされ、自分自身も傷ついてしまう。
 だが不思議なことに、「決してわかりあえない」ことを知った時、家族や友人や自分のまわりのひとたちをいとおしく思う。
 そして、もう一度いっしょうけんめい生きよう、いっしょうけんめいつきあおうと静かな決意をする。登場人物たちの後姿はドラマが終わった後、いつのまにか見ているぼく自身の後姿になっていた。

 ひとはいつから自分がおとなになったと感じるのだろう。波がきらきらした夢を連れ去った後、砂浜に取り残されるものは思い出という貝殻だけなのだろうか。
 いや決してそうではないのだ。若さというスピードが置き忘れた人生の意味をひとつひとつ辛抱強く拾いながらもう一度歩きはじめる時、ひとはおとなになっていくのだと思う。
 つまらないと思ってしまいがちな平凡な日常生活の中で「自分らしさ」を再構築していくドラマを、ぼくは必要としていた。山田太一のドラマは、おとなになっていくぼく自身のドラマでもあった。
 そしてぼくにとって、山田太一のドラマはフィクションで終わらなかった。「男たちの旅路」シリーズの「シルバーシート」、「車輪の一歩」は、その後僕自身が会社勤めをやめて、豊能障害者労働センターの専従になることを予見していたのだった。

 「わが家は何気ない毎日だった。でも、この3ケ月がなんでもないはずはなかった.少なくともぼくは変わらなければならないと思った。あるがままに、自然に生きるのではなく、無理をして自分を超えようとする人間の魅力を、忘れたくはないと思った。」(「早春スケッチブック」)

2001年6月2日、箕面市民会館で「山田太一講演会」を開きました。当日は650人のお客さんがご来場くださいました。講演の後、牧口一二さんとの対談、河野秀忠さんを交えた鼎談、加納浩美さんのミニライブもあり、楽しんでいただけました。

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