「桑名正博コンサート風の華」メモリーズ1 1990年

「桑名正博コンサート風の華」メモリーズ1
 1990年1990年5月13日発行、豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.39より

1050人の夜と海をだきしめてありがとう!桑名正博さん、そしてあなた…
重いトランクを両手にぶらさげ
列車の切符をくわえたくちびる
かかとまではきつぶしたズック靴ひきずり
(桑名正博「ライムライト」)
 1050人ぶんのくらやみをつきやぶり、桑名正博さん、あなたは歌いはじめました。
 4月27日、箕面市民会館にいた人々の、それぞれの心が次々と船出する夜を、ずっと前からどこかの海岸で待っていたかのように、あなたはステージに立っていました。
 そのひとつひとつがどこの街からやってき、どこの港に行くところなのかわかりませんが、その日、あなたの歌のスコールをあびたそれぞれの人生の糸がからみあうのが、たしかに見えました。
 ピアノの音が闇のむこうの朝の空にはじけるのが、あなたの声によびもどされた夕焼けをささえる遠い風景が1050の心に焼きついていくのが、たしかに見えました。
 4月27日、ひとりの70代の女性が桑名さんの歌をきていていました。
 彼女は労働センターができてからずっと昼の食事づくりや、機関紙をおくる作業を手伝ってくださっています。桜井駅のすぐ近くに借りた前の事務所は、8年前で築35年の古い民家でした。陽もあたらず、すきま風がふきぬける部屋の中におくと凍ってしまうので、ぼくたちはビールを冷蔵庫に入れたものでした。
 ぼくたちの体と心を足早にとおりすぎていった8年の時の群れたちのジグザグもようをずっと見続けている彼女から、コンサートの翌朝、電話がありました。
 「ほんとうによかったね、あんなにたくさんの人が来てくれたの、はじめてだね。うれしくて、うれしくて、忙しいと思ったけど電話しました。
 桑名さんがセンターのために一生懸命歌ってくださって、わたしはもう、のっちゃってね、孫娘と3人で行ったんだけど、行くのに乗り気でなかったのにみんなすごくのってね。打ち上げに行きたい行きたいと言ってね。迷惑だからと連れて帰ったんです」。
 桑名さんのファンの人は、最初はいつものノリとちがう客席にとまどったかも知れません。でも、たった一本の電話で歌の花束をプレゼントしようとこたえてくださった時から、ぼくたちの心には桑名さんの音楽が、このコンサートそのままにきこえていました。
 動きまわった3ヶ月、ぼくたちをふるいたたせ、元気づけてくれたのはそんな心の壁にいつも伝わっていた4月27日の桑名さんの歌であり、あの1050人の人々への予感でした。
 このコンサートのために力をつくしてくださった渋谷天外さんが、舞台でほんとうに緊張しておられたのも、ぼくたちと同じスタッフの側に立っておられたからだということも、「いいんじゃないですか」というマネージャーの中空さんのくちぐせも、みなさんのあったかさに心を打たれました。
 ぼくたちのお店「キャベツ畑」に来てくれないかとお願いしたら、時間のむりを押して来てくださったこと、コンサートの前とは思えないとリラックスして、いろんなものを食べてくださったこと。
 控室に梶君を迎え入れてくれて、生の声できいたエルトン・ジョンの「ユアー・ソング」。
 そしてなによりも風邪で熱があったと後から聞き、そんなことを感じさせない声でたくさんの歌を歌ってくださったこと。
 ありがとう、桑名さん。ありがとう、小島さん。ありがとう、河内さん。ありがとう、浜崎さん。ありがとう、天笑さん。ありかとう、小米朝さん。
 ありがとう、そして4月27日のみんな。
 それから2週間ほどして、彼女の息子さんが57才の若さで亡くなられました。長い間病気とたたかわれた末のことでした。
 こんなところでひとの死にさいて書くことがふさわしくないことも、ゆるされないこともわかっています。
 それでもぼくたちはお葬式で、3人の孫娘さんたちが泣きじゃくる姿と、先立った息子さんへの、ぼくたちには推し量れない無念さと深い悲しみをちいさな体にかくして、気丈にされている彼女の姿を見た時、またぼくたちのところにかけよって来られて、「センターが忙しいことをわたしはよく知っているもんだから、ほんとうにもうしわけなくて、わたしの方が手伝いに行けなくてすみません」と、悲しみのふちにあってもぼくたちのことを気にかけてくださることに、込みあげるものを飲み込んだ時、
 桑名さん、ぼくたちの胸に、4月27日のあなたの声がもう一度きこえてきました。
 
朝の光のなか
ほほえんだおまえの顔
かがやいた天使たちへと
ありがとう

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