阪神淡路大震災の教訓は活かされているのか?

被災障害者支援・NPO法人ゆめ風基金の30年
5月25日、大阪上本町のたかつガーデンでNPO法人・「ゆめ風基金」の30周年記念イベントがありました。
1995年の阪神淡路大震災の被災障害者救援活動の中で、被災障害者への長期的な支援と、将来の自然災害に備えて障害当事者を中心にした基金活動としてゆめ風基金は設立されました。
設立から30年、2011年の東日本大震災や熊本地震、台湾の地震、また数々の豪雨災害など自然災害で困難な状況に陥った被災障害者への迅速かつその後の持続的な支援活動によって、どれだけの障害者とそのグループが助けられたことか計り知れません。
そのことをもっとも深く理解するのもまた継続的に基金を寄せる全国各地の市民で、ゆめ風基金の支援金は累積10億円に達し、そのうち6億5000万円が支援活動として各地の被災地に届けられました。
基金活動だけではなく、とくに東日本大震災からは発災直後の救援や復興・再生へと軸足を伸ばし、ボランティアの派遣にとどまらず、被災地の障害者グループを中心に持続的なネットワークづくり、避難計画・防災・減災の取り組み、国や地方行政への提言、さらには一般企業のひな型に近い事業継続計画(BCP)ではなく、障害当事者の被災前の事業活動を継続させることを優先させた福祉事業所における事業継続計画(BCP)の必要性を訴え、多岐にわたり障害当事者のみならず、各地の地方行政からも助言を求められる頼りになる活動団体として現在に至っています。
ボランテイア活動は本来行政の行き届かないことを補うものと言われます。わたしも阪神淡路大震災までは、行政がするべきことの肩代わりをするだけのボランティア活動をどこかむなしいものと思っていました。しかしながら、ボランティア活動は足りないところを補うだけでなく、むしろ行政や政治が想像できない現実を発見し、自ら行動することで市民の市民による市民のための新しい社会をつくりだすことなのだと、ゆめ風基金の活動から学びました。
この30年は支援を受けた障害者やそのグループがその後の自然災害の被災者を支援していく大きな助け合い社会がゆめ風基金を拠点として広がっていく希望の年月だったことを、そしてわたしもまた発足から20年その活動に参加させてもらえたことが人生の宝物です。
わたしがゆめ風基金にかかわらせてもらったのは、昨年亡くなられた牧口一二さんと、豊能障害者労働センターの代表でもあった河野秀忠さんがきっかけでした。
わたしは社会の正義に向かってひたすらまい進することができないまま人生を終わる気がしていますが、少なくとも1980年に河野秀忠さんと知り合い、豊能障害者労働センターの誕生に関わらせてもらい、はじめて目の前の出来事や自分の欲望や野心などから自由になり、自分が見ようとしてこなかった現実を切なく生きるひとびとに共感できる心を持つことができました。そして、社会の理不尽な出来事に立ち向かう勇気を持つことを教えてくれたのも河野さんでした。もちろん、牧口一二さんと出会えたのも彼のおかげでした。障害者の運動の歴史と伴走したといえる2人の出会いについては河野さんから伝え聞きましたが、その出会いが育んだ特別な友情が最後にたどり着いたのが自然災害の被災障害者を支援するゆめ風基金だったことは、運命としか言いようがないのでしょう。
思えば1995年という年は阪神淡路大震災とオウム真理教事件によって戦後民主主義と高度経済成長の虚像と暗闇が剥がれ落ちる最初の年でもありました。
心に深く、大地に広く、歌は流れる…
記念イベントは、牧口さんから代表理事を引き継がれた戸田二郎さんのあいさつの後、神戸大学・兵庫県立大学の名誉教授・室崎益輝さんの基調講演がありました。防災研究第一人者の室崎さんのお話は阪神淡路大震災から30年、その教訓は活かされているかというテーマでした。
この30年、たくさんの災害を経て今、能登大震災の被災地の現状からは教訓は活かされるどころか後退している。台湾やイタリアの例をあげても日本の避難所のあり方はほとんど変わらず、経済成長の鈍化が社会の備えをさまたげる。言い換えれば成長神話の下では人のいのちを守ることは後回しになってきた証拠で、災害は社会のもろさやゆがみを顕在化し、それ故にその誤りを正すことが復興に求められると…。人間、それも健全者中心の傲慢な社会から人間も自然の一部という認識に立ち戻り、自然と共生し多様な社会を実現することで「人間の安全保障」をめざそうと話されました。2部のパネルディスカッションでは能登大震災で最も困難な状況にある能登の障害当事者団体の支援活動が報告されました。大阪府の北端・里山能勢に住んで14年、日本列島で最も多い中山間地のひとつ・能勢の日常にも、そして非日常にもつながる切実な報告でした。
3部は呼びかけ人代表の小室等さんとこむろゆいさんのミニコンサートでした。小室さん・ゆいさんの音楽を聴いていると自然に涙がこみ上げてきました。本来、このような場でのライブはメッセージが求められる一方、音楽そのものの深さを伝えることがむずかしいと思うのですが、日本のフォークの先駆者であるだけでなく、音楽以外の分野の人々とも深い交流を持たれている小室さんが、その場の雰囲気を壊さないように丁寧に歌われていることに涙しました。
ゆめかぜ基金の応援歌として10周年の時に生まれた谷川俊太郎・永六輔共作詩・小室等作曲の「伝えてください」と「風と夢」を久しぶりに聴きました。この歌を作ってほしいと牧口一二さん、河野秀忠さん、そして長い間事務局長を務めた橘高千秋さんたちが小室さんにお願いする場にわたしも居合わせました。小室さんは「アフリカの飢きんを救済するためにつくられた『We Are The World』をわたしはあまり好きじゃない」と言われ、ゆめ風基金の応援歌を作るべきか迷っておられたように思います。その時、事務局が「なぜですか?」と問いかけ、後日に小室さんからFAXで長いメッセージが送られたことを思い出します。
メッセージの内容を忘れてしまいましたが、わたしはその言葉を聞いた時、音楽に対する小室さんの矜持と、ゆめ風基金に対する深い想いがこめられていると感じました。
時として歌や音楽はある種のポピュリズムを生み、特定の場での権力に寄り添ってしまうことがあることに小室さんはいつも気を付けながら活動されてきたことと、被災当事者が主体となって地道で持続的な支援活動を続けるゆめ風基金を大切に思うからからこそ、チャリティソングが偏ったメッセージを届けてしまわないかと心配されたのではないかと思いました。
結局は作曲を快諾し、素晴らしい歌ができたのですが、あの時に躊躇された小室さんだからこその応援歌で、声高に押し付けず静かに流れてくるこの歌は小室さんのライブ活動を通して幅広く、たくさんの心に深く届けられたことでしょう。
小室さんの歌を聴きながら、牧口さんと河野さんが大阪府豊中市に講演に来られた山田太一さんからゆめ風基金の最初の基金をその場で受け取ったこと、永六輔さんが大阪の大きな会場に来られた時、牧口さんが基金の説明をして「代表になってくれないか」とお願いすると、「代表はあなたがなったらいい、わたしは呼びかけ人の代表ならさせてもらう」と言われた時の大きな顔、設立のコンサートを大阪のフェスティバルホールで開いた時、マネージャーから翌日の予定があるのですぐに会場を出るように伝えてくれと連絡が入り、その伝言を伝えると「わかっているよ」とぎりぎりまで舞台に立ち、タクシーの段取りしていたのですが、「淀屋橋はすぐそこだから」と足早に走り去った永さんの後ろ姿…。
そんな数えきれない思い出のあれこれを一つずつ解きほぐしながらたくさんの大切な時間と大切な場所と大切な心の近くに居合わせたことに、あらためて感謝したいと思うのです。