阿久悠と堺正章と島津亜矢と「うたコン」

島津亜矢にのめり込んだのは親友だったKさんへの追悼でした。

 2月4日、NHKの「うたコン」が作詞家・阿久悠の特集をしました。
 島津亜矢が出演し、また堺正章がミッキー吉野とシシド・カフカの3人で結成した『堺正章 to MAGNETS』が出演するということで、ほんとうに久しぶりにこの番組を観ました。
 わたしは島津亜矢の追っかけに近いファンだったのですが、あることがきっかけで、別に嫌いになったわけではなかったのですが、ファンであることをやめてしまいました。
 もともと、わたしが島津亜矢にのめり込んだきっかけは早くに亡くなってしまった親友のKさんでした。彼はわたしも勤めていた機器メーカーで、ベトナム戦争末期に難民への支援として社員の受け入れをけん引しました。その後ベトナムに単身で渡り、ベトナムの合弁会社の社長として長年尽力しました。連れ合いさんがとてもいい人で、娘さん2人との4人家族はとても仲が良く、娘さんたちにとても愛されていた彼ですが、仕事の関係で帰りたくても帰れなかったのでした。
 会社の業績も順調になったところで肺がんが見つかり、彼は急遽帰国しました。
 入院した新大阪の病院に見舞いに行くと、彼は島津亜矢のCDを持ってきてくれといいました。わたしはその時、遠く離れたベトナムで島津亜矢を聴いている彼の姿を思い浮かべて、実力はあっても恵まれない彼女の歌が、海を越えて受け止められていることに感動しました。
 残念なことに彼はそれから2、3年後だったでしょうか、愛する家族に囲まれてなくなりました、わたしは彼が兵庫県の先進医療機関で治療入院した時に聞いた最後の言葉が忘れられません。「何が悲しいかというと、死ぬということは愛するひとたちにもう会えなくなることやねん」。わたしは返す言葉が見つかりませんでした。わたし自身、今はすでにいつこの世を去っても不思議でない年齢になり、いまだに何の覚悟も死生観も持ち合わせずあたふたする毎日ですが、あの時の彼の言葉を今はわたし自身の言葉として、いつまでもわすれないと思います。
 それはさておき、それからわたしは「島津亜矢・命」となり、それまではフォークやロックのライブしか行かなかったのに、島津亜矢のコンサートにいくようになりました。
 それがちょうど東日本大震災を機に始めたブログの主な記事となり、10年ほど彼女のコンサートや発売されていたDVD、そして「うたコン」などの出演の模様などを、友人からも妻からも呆れられながら書いて書いて書きまくりました。
 そして、島津亜矢を通して美空ひばりや春日八郎、三橋美智也などの往年のスターたちや、寺山修司に教えてもらった星野哲郎や畠山みどりなど、戦後民主主義と並走してきたわたしの子ども時代を彩った巷の歌と時代のはざまをさかのぼりました。それはまた、稀有の歌手・島津亜矢を通して今を生き、未来の荒野を巡るわたしの存在証明でもありました。

報道もバラエティー化し、歌もAIでつくられてしまう時代に、孤独な心を届ける肉声はあるの?

 ある日、いわゆる「歌うま」番組に島津亜矢が出演しました。その頃になると、マキタスポーツが命名した「歌怪獣」という称号が仇となり、そのような番組に呼ばれるようになっていました。その番組で島津亜矢はKing Gnu(キングヌー)の「白日」をうたいました。わたしは特にKing Gnuのファンではありませんが、彼らの音楽にはメロデーだけではたどり着けない奥の深さがあり、バラバラの入り口からある一瞬奇跡のような音楽と出会う不思議な魅力があります。どの楽曲もほんとうはかなり複雑にできているし、そのマインドも一筋縄ではいかないように思います。
 その番組ではこの曲を単なる「難曲」、つまり歌うのが難しい楽曲で、歌怪獣・島津亜矢がすんなりと歌ってしまうという筋書きになっていて、歌い終わると絶賛また絶賛でした。
 しかしながらわたしと言えば、約10年追っかけていた島津亜矢への情熱が一気にさめてしまいました。けっして彼女のせいではないのは承知で、気がかりだった歌怪獣が独り歩きし、彼女らしくなくオリジナルの楽曲へのリスペクトも、この楽曲が誕生した瞬間にたどり着こうとする冒険も感じられませんでした。もともとこの楽曲はボーカルの歌唱だけで成り立つものではなく、ロックやクラシックの室内楽のように各プレーヤーの演奏全体が組み立てていく楽曲なのだと思います。
 少なくともわたしは今でも、もし演歌というジャンルが残るなら、新しい島津演歌の時代がやってくることを望んではいますが、そんな時はもうやって来ないように思います。とても残念だけど、予定調和的な世界でもがきながら、多くのファンと彼女を支えるスタッフのために歌い続けなければならないのでしょう。
 今回の番組は阿久悠の作詞による昭和の大ヒット曲を中心にした構成で、堺正章が名曲「街の灯り」を久しぶりに歌いました。この楽曲をつくった作曲家は浜圭介ですが、わたしは彼が阿久悠とつくった楽曲の中で「舟歌」と同じぐらいか、それ以上に大好きな歌です。この歌はボサノバの小野リサのカバーが秀逸ですが、久しぶりに本人が歌う「街の灯り」には堺正章の持つ天性の声とバタ臭さがあふれ出ていました。

こんな悪夢を夢みたはずはなかった阿久悠の「時代とキャッチボールする歌」

 阿久悠が1970年代に連発したヒット曲を振り返ると、戦後民主主義の下での高度経済成長を謳歌する流行歌やアイドルソングや演歌など数えきれないほどありますが、実はそれらの背景にある巨大な時代性とたたかったひとだと思います、わたしはその姿が山田太一と重なります。山田太一は視聴率、阿久悠はヒット曲と、それぞれの使命が科せられる中で、一つのドラマが、一つの歌が時代を変え、時代を越え、その時々の政治を変えることもある可能性を信じ、たたかい続けたのだと思うのです。
 阿久悠の場合は、時代の空気を読み取り、それを反映するだけではなく人々の心に凄む固定観念の硬い扉をこじ開けようとする剛腕が、時には衝突を生むこともあったのでしょうが、例えばヒンクレデイの数々のヒット曲で子どもたちに受け入れられていくことでたしかに時代を変えたひとだったことを、今回の番組であらためて実感しました。彼が活躍した時代にはSNSがありませんでしたが、今ならSNSやAI技術などが時代へのアプローチを変えていく様子を目の当たりにして、歌のもつ可能性をさらに追い求め、時代に対置したことでしょう。
 島津亜矢は尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を歌いましたが、この歌も当時は「二人でドアを閉めて、二人で名前消して」という歌詞に、別れる時も男性と女性が対等に別れていく新しい時代を描いたと言われましたが、いまではそんなことは当たり前のことになりました。
 そういえば阿久悠はその作詞術を語る「作詞家憲法十五条」の中で、「個人と個人の実にささやかな出来事を描きながら、同時に社会へのメッセージとすることは可能か」という言葉を残しています。「歌は時代とのキャッチボール」とも…。
 わたしもまた、今の政治状況を一番反映しているのは芸能人のセクハラ、パワハラ、不倫などの問題を取り上げ、それらの行為をみずから仕組むテレビ局を含むマスコミとSNSだと思います。暴露と憎悪と妬みと脅しの民主主義はわたしたちの身のまわりだけでなく、それらが時代の地下水道を通り、遥か隔てた海の底でつながっていることを、アメリカ大統領選挙をはじめ日本の選挙を通して今ほど感じることはありません。
 戦後民主主義の路石をめくれば、世界とつながってうごめく小さく無数の権力の泡が噴出してくる現実があります。旧ジャニース問題から次々と起こる芸能事件まで、そのたびに放送の自粛などテレビのはるか向こうで繰り広げられる忖度と謝罪が誰に向けられているのかと問い直すとき、政治家も芸能人もわたしたちもまた、理念やミッションよりも謝罪する練習から始めることになるのかなと想像してしまいます。

街の灯りちらちら、あれは何をささやく
愛が一つめばえそうな胸がはずむ時よ (阿久悠作詞・浜圭介作曲「街の灯り」)