私もまた荒野の子だ。 コロナ後の世界とアンドレ・ブルトン

新型コロナウイルスのための非常事態宣言が解除となりましたが、第2波第3波がやってくるのは必至で、町も経済も元のようになるのは2年以上かかるともいわれています。
国や都道府県行政が自粛継続を要請するまでもなく、わたしたちの心も体もすぐには以前のような気分に戻れるはずもないというのが現状ではないでしょうか。
国の要請に基づいて外出自粛とソーシャルディスタンスを律儀に守ることで第1波を曲がりなりにも乗り切ったわたしたちの国は、民主主義の成果と喜ぶべきなのか、あるいは極度の同調圧力によるソフトファシズムの社会に追い込まれてしまったのかを知るのはすべてこれからのことで、残りの人生が短くなったわたしがそのありようを見届けられるのか正直わかりません。
そして、いずれこの地球規模の大惨事がおさまったとしても元の世界や暮らしに戻れないこともまた、わたしたちはすでに知ってしまいました。
いわゆる「コロナショック」後、わたしたちはどう生きるのかはこれからの社会のありようと深くかかわることですが、すくなくとも東日本大震災の時、20世紀型の成長第一主義から社会が変わると思いました。しかしながら実際はアベノミクスというカンフル注射に踊らされ、AIや5Gやオリンピックや高速モノレール、大阪的には維新政治が席巻し、万博やカジノなど、インバウンドをあてにしたエセ成長神話の中にいる人たちと、その外に広がる広大な荒野に放り出される人たちとの分断と格差を産み続けるだけでした。
コロナ後の世界はその分断と格差がより一段とアクセルをふかし、わたしが望むようなより近くよりゆっくりとした顔の見える経済や政治はこのままではより遠くなる気がします。そうであるならば、人生最後のチャレンジはこの広大な枯れ野、奥深い森、風が吹きすさぶ荒野を耕すことなのかもしれません。
第二次世界大戦が終わった直後、あるラジオ番組で「わたしもまた荒野の子だ」といったアンドレ・ブルトンの言葉が心に刺さります。おそらくヨーロッパ社会の矛盾をみつめてきたブルトンは、シュールレアレストとして、資本主義による労働の商品化と貧困の連鎖を指弾する一方、スターリニズムに至る自由を弾圧する国家主義との対決を恐れず、人間の社会的開放と精神の開放、政治的革命を包括する人類の冒険を夢見ていたはずです。
しかしながら70年の時を経た今、戦後の覇権の盟主として世界を支配してきたアメリカのゆっくりとした没落と、香港と台湾、そしておそらく少数民族の独立と自由を奪い、個人を国家に拘束し、新しい覇権のプレイヤーとして世界に躍り出た中国という、新しくとても危険な新冷戦の時代をわたしたちは生きています。
今回の新型コロナウイルス感染症で明らかになったことのひとつは、グローバリゼーションと新自由主義のもとで保健・衛星・医療への社会的投資が著しく削減されていたことです。「公務員が多すぎる」と喧伝し、公務員の数を減らしてきたことや、民間委託で公的サービスを肩代わりする行政改革を「正義」とし、危機管理に必要な人的物的財産を食いつぶしてきたことが、世界で30万人もの尊いいのちが奪われてしまったひとつの要因と言われています。わたしたちの国もまた、その例外ではないと思います。
安全神話とコストが一番低いといわれた原発が、ひとたび事故が起きると天文学的な費用がかかり重大な健康被害を引き起こすことを福島原発事故が教えてくれたはずなのにいまだに原発をやめないように、新自由主義にもとづく規制緩和と民間委託のアクセルを強く踏み続けることをやめようとしないこの国の未来が決して明るくないとしたら、ブルトンが生涯かけて夢見た「人類の冒険」は、世代も生きる場所も越えた世界市民の希望と自由と愛を育てるネットワークに引き継がれることでしょう。
そして、わたしもまたそのネットワークのひとりとして、ささやかな夢を持ち寄りたいと思うのです。

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