虚像の背後にある孤独と死 アンディ・ウォーホル・キョウト

人は誰でもその生涯で15分だけは有名になれる」(アンディ・ウォーホル)

 2月5日、京都市京セラ美術館で開かれているアンディ・ウォーホル・キョウト展に行きました。昨年の9月から開かれていて、行こうと思いつつ能勢から京都は遠く、またコロナのこともあり、ぐずぐずしている間に12日の最終日が近づいてしまいました。もうこれはパスかなと思っていたら妻が行こうと言い出し、箕面の友人にも声をかけ、3人で行ってきました。
 京都へは昨年も金平茂樹さんの講演会に行ったりはしましたが、なんといっても絵画展にいくために京都に行くことが若い時からの特別なイベントでした。
 長い間行ってないと思ったら、前回は2016年の「若冲展」以来で7年ぶりとなっていました。混雑を予想していたのですが案外混雑もなく、またとてもよく晴れた春の陽気の暖かさで、絶好の行楽日(展覧会日和?)になりました。

1960年代のウォーホルとわたしの青春

 高校生の時、授業にほとんど興味を持てず、反抗的な態度に学校も教師も手を焼いていただろうわたしは、たまたま美術部に入ったことで人生を大きく左右することになり、その頃のわたしのバイブルといっていい「美術手帳」で、ポップアートを知りました。
 ロバート・ラウシェンバーグ、ジャスパー・ジョーンズとともに、1960年代のポップアートをけん引したアンディ・ウォーホルを知ったのもその頃でした。写実画にしても抽象画にしても絵画は描かれるものだと信じ切っていたわたしは、シルクスクリーンでプリントしたマリリン・モンローに衝撃をおぼえました。それは、いわゆる手仕事のような版画とはまったくちがうもので、アメリカの大量消費社会を背景に、時代の破片と記憶の洪水が個々の人間の記憶をも書き換えてしまうようでした。そのエネルギーは単にポップアートというムーブメントをはるかに飛び越え、刹那的もいえる時代そのものをひとびとの心に焼き付けてしまう、反復と増殖と破壊のワンダーランドでした。
 一方で世界の半分の「もうひとつの国家」に抑圧され、打ちひしがれた人々の自由と、大量消費社会の牢獄の中で大量生産のモノたちに囲まれ、行方がわからなくなってしまった人々の自由…、2つの自由が奇妙につりあい出会ってしまう後悔までもが写し絵になっていました。
 ともあれ、対人恐怖症で、学校に行くのが苦痛だったわたしのただひとつの楽しみは、美術手帳にあふれているきらきらしたアートとアーティストについて友だちと何時間でも話すことでした。別の学校の美術部員だった妻と出会ったのもその頃でした。
 高校卒業をきっかけに美術部の友人3人で大阪市岸里のアパートで同居し、一度は別々になったもののそれからしばらくして、今度は大阪府豊中市の空港の近くの2戸建ての家を借りて、3人を含む6人の共同生活をはじめました。その間に寺山修司、高松次郎に傾倒し、ビートルズを聴き、梅田のジャズ喫茶でジョン・コルトレーンを聴き、大阪梅田東通商店街のどこかにあった幻のたまり場「オーゴーゴーゴー」に出入りしていました。同年代の若者が大学紛争や安保反対闘争に必死だったにも関わらず、わたしは共同生活の隠れ家の4畳半で膝を抱えながら、それでもやけどしそうな時代の熱風が身体にまとわり、こんな自分にも何かできることがないのかと思っては引っ込み思案の自分に絶望していました。街はきらきら輝き、大阪道頓堀のグリコの看板は鮮烈な色合いで私に「走れ」と叫んでいるようでした。青春…、そうだ、これが青春なのだろう。わたしは言葉を呑み込みました。

毛沢東とマリリン・モンローとプレスリーとボブ・ディラン 時代の破片のブロマイド 

 あれから60年近くの年月が流れました。今回の大回顧展の会場に入ると、わたしの青春の火照りがよみがえりました。アンディ・ウォーホルの軌跡と共にわたしの青春がたどった旅の「その後」を生き、残り時間が少なくなった人生をふりかえり、懐かしさよりもあの頃の激しく青い時をどこで失くしてしまったのかと、少し切なくなりました。
 アンディ・ウォーホルは、チェコスロバキア(現スロバキア)からの移民で肉体労働者だった父の子どもとしてピッツバークに生まれました。身体は虚弱で、肌は白く日光アレルギーで、身体の特徴に対する極度のコンプレックスもあったのでしょう。絵画にとどまらず、映画やCM製作、ロックバンド「ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」のデビューアルバムの制作など多岐にわたり、華やかに見えた活動とは裏腹に、拭い去れない孤独にさいなまれた人生であったのではないかと思います。
 1950年代の商業デザイナーとしての成功を捨て、1960年代に入るとシルクスクリーンプリントによるキャンベル・スープの缶やコカ・コーラの瓶、ドル紙幣をモチーフにした作品を精力的に作り出しました。
 今回の回顧展ではじめて見たのですが、1950年代の商業デザインやイラストでは花をモチーフにした華やかでかつ繊細な作品がすてきでした。
 60年代の作品になると会場の空気が突然圧迫感を感じるほどエネルギーにあふれ、「もの」というより大量生産の商品に囲まれ、欲望がすべてという消費社会そのものがどの作品の背後にぎっしりつまっていました。

「自由だ!助けてくれ!」 大量消費社会のとめどない欲望にまとわりつく孤独と死

 1964年、ウォーホルはマンハッタンに「ファクトリー」と呼ばれるスタジオをつくり、彼はそこで版画や映画を制作しました。絵画がひとつひとつ手作りのタブローである必要はすでになくなった大量消費社会の芸術活動は、たとえば工場で労働者が商品をつくるようにあっていいということでしょう。ファクトリーは作品を制作するだけでなく、時代を彩る映画スター、モデル、アーティストが集まる場所になりました。
 今あらためて見直すと彼の作品と活動の背後にあるのは消費社会の欲望だけではありません。時代をけん引するトップスターの輝きの一瞬に時代の皮膚をはがし取るようなポートレートには、使い捨てにされ没落していく姿をも映されていて、そのひとがいた記憶もその時代があった記憶すら消されていく残酷さと寂しさがこぼれていました。
 1968年、ウォーホルが40歳の時に「ファクトリー」で仕事仲間の女性に銃撃され、一命はとりとめたもの重傷を負います。そのことが影響したのでしょうか、その後につくられた作品は、ジェット機事故、自動車事故、災害、惨事などの新聞を騒がせる報道写真も使用したりと、死をモチーフにしたものが数多くありました。
 絶筆となった「最後の晩餐」はレオナルド・ダビンチの有名な壁画をウォーホルの芸術と人生に照らし合わせて現代によみがえらせた大作で、彼が最後にたどり着いたものは子どもの頃からの孤独と死であったことを、今回あらためてつよく感じました。
 とても愛おしくとても悲しくとてもさびしい展覧会でした。