街も時代も記憶をかくしている、そこに生きる人々もまた…。

16歳のわたしに生きる勇気と夢をあたえてくれたデ・キリコ
12月3日、神戸三宮の近くにある神戸市立博物館で開催されていた「デ・キリコ展」に行きました。
9月14日から12月8日までの期間で、早くから必ず観に行くもりでしたが、病院通いや雑事に追われ、また2人の友だちとの日程がなかなか合わず、閉会ぎりぎりの最後の日曜日になってしまい、やっと間に合ったというわけです。ずいぶん前に初めて見た回顧展以来でした。
デ・キリコの絵と出会ったのは高校時代で、友だちに教えられて雑誌「美術手帳」の特集をみたのがきっかけです。ネオダダイズムとポップアート全盛期にダダイズムとシュルレアリスの再評価の記事がたくさんありました。デ・キリコはシュルレアリスムの先駆者のような感じで「形而上絵画」と紹介されていました。
まだ開発も進んでいなかった大阪府郊外の田園で育ち、世間知らずだったわたしにとって、大阪市内の工業高校に通うために電車に乗るのもはじめての経験でした。
母と子の3人暮らしで、母が寝る間も惜しみ近くの工場で働く人たちを相手に食堂を切り盛りしながらわたしと兄を育ててくれた事情の中で、自分の吃音や対人恐怖症に悩むばかりで母親の苦しさに想いをはせることもできませんでした。ただただ暗くてつらいだけの自分の人生にとてもない勇気と夢を与えてくれたのが数少ない友だちと現代芸術の世界でした。
たしかに時代もまた、どこに飛んでいくのかわからない自由だけがともだちという若者の文化が全国に広がっていった頃でした。ともあれわたしは都会育ちの友人たちに刺激を受け、母親や兄が心配するほど時代の過激さに飲み込まれていきました。
工業高校の建築科だったこともあり、キリコやデルボー、マグリットの絵の風景や建築に惹かれていったのですが、その中でもキリコの絵の中の回廊や柱、広場や塔、マヌカンや家具が時には整然とした静かなたたずまいで、時には雑然とした激しい戦いや災害の残骸として、わたしのまだ幼く真っ白な心のキャンバスにぬりこめられたのでした。
デ・キリコの絵の中の風景はわたしが子どもから大人になるための旅立ち
わたしは実は高校の3年間、春だけに用意される石膏デッサンのみに参加する以外、絵を描かない美術部員でしたが、ギリシャ神話の人物の胸像はキリコの絵にも登場していて、なんとなく親近感を持っていたのかもしれません。
キリコの絵にはどれもなつかしさとさびしさが同居し、タブローの中の街がすでにたくさんの記憶と未来への予感がぎっしりつまっているように思います。その街にその部屋にわたしもまたずっと前から住んでいたような気になるのです。
高校を卒業し、高校の時の友だち3人で暮らすようになった大阪市の岸の里駅近くのアパートから少し歩くと釜ヶ崎の三角公園があり、何度も行きました。高度経済成長のもと釜ヶ崎の日雇い労働者の劣悪な暮らしと理不尽な行政が引き起こした数々の「暴動」の意味もまったくわからないままなのに、街のひとたちがとてもやさしく世間知らずのわたしを見守り、声をかけてくれたことを今でも思い出します。
唐突でまったく見当違いだと思うのですが、わたしは今回のデ・キリコ展で、街の空気も時代も人もちがうけれど、どこか釜ヶ崎や天王寺の雑多で人懐っこい風景と、キリコの絵の中の何か変わらないものを隠しながら移りゆく切り取られた一瞬の風景が、わたしの中でつながりました。それだけでなく、子ども時代の小学校の校庭が神社とつながり、その境目のない草むらの中に落ちていた「いかがわしいもの」や、そこだけ光が当たらず神社の方に目を向ければ夏でも寒々とした高い木々からもれる少し怖い光の粒。国鉄のガード下やトンネル。そして、鉄条網の切れ端でけがをしたことがある小さな広場にころがっていた鍋やかけた茶わん、おおきなヤカンとちゃぶ台、戦争から置いてけぼりをくらったようなコンクリートの塊と、その上に這うつる草…。戦後生まれのわたしたち子どもにとってはそれまでの大人たちの苦しさも悲しさも知らないまま無邪気に過ごした広場は、街の暗い記憶とその痕跡が打ち砕かれ、まだ復興や再開発とは無縁の場所で、街が街だったことも遠くに去り、これから街になるにもまだ長い時間を必要とした踊り場で、だからこそ政治的も経済的にも無意味な解放区として、わたしたち子どもに許された居場所だったのだと思います。
街が輝いて見えるのは街づくりだけでは届かない時代の謎を持っているから…。
1888年にイタリア人の両親のもとギリシャで生まれ育ち、イタリアからフランスへと居を変えながら、2つの世界大戦のはざまの刹那的な明るさと暗くよどむ空気を吸い込んだ数々の芸術運動が花開いた時代に、デ・キリコもまた時代の先駆者として脚光をあびることになりました。わたしがはじめて見た絵も1910年代から20年代の形而上絵画の時代のものですが、生涯にわたり古典主義など数々の技法を展開しながらも、彼の場合はすべての時代がギリシャでの幼児期に普通に見ていた風景をいつまでも大切にしていたのだと感じました。
そして、街の風景や時代の風景はその時代を通り抜けた人々が見た心の風景が入り混じり、もとより遠近法で示されるひとつの地平には収まり切れないものでしょう。街が壊れていくたびに次々と新しい街が立ち現れても、街と時代が隠している無数の記憶はいつまでも街のいたるところに潜んでいて、次の、そのまた次の人々が探し当てるのを静かにまっていることをデ・キリコの絵は教えてくれました。
今また、世界がわたしには悪い方向へと時代の舵が切られようとしているように感じながら、デ・キリコの描いた街は不穏な予感と安寧な世界と人類の未来への強烈な警告を届けているように思います。
もう、地球も世界もわたしたちも間に合わないのかもしれません。しかしながら一方で、わたしたちはぎりぎり間に合うかも知れないラストチャンスを与えられていると信じたいのです。
会場の神戸市立博物館を出ると、久しぶりに来たせいか神戸の街はまったく違う姿になっていて、おしゃれな建物が整然と並んでいました。30年前の阪神淡路大震災で被災した神戸三宮の街の風景がよみがえりました。わたしは被災障害者に救援物資を届ける役割を担った豊能障害者労働センターの一員として、噴煙と焚火の火と明かりがほとんどなくなってしまった街に何度も訪れました。ビルは傾き、家々の屋根だけが地面にそのままへばりついていた風景もまた、この新しい街に記憶されていることを改めて感じました。
この会場でデ・キリコ展が開催されたことは特別の意味があるのだと思いました。
撮影許可のあった作品をご紹介します。