表現は時代を越える 劇団「デコジルシー」の新たな冒険

わたしは毎年、春の唐組公演と同じぐらい楽しみにしている芝居があります。
障害者の放課後等デイサービスの利用者と卒業生、それに職員や関係者による劇団「でこじるしー」の芝居です。毎年秋に新作を上演し、今年は第11回公演「ディスッテールハウス」でした。昨年はコロナ禍でオンライン上演をしましたが、今年はコロナ対策を万全にして、いつもの会場・箕面市立メイプルホール小ホールで上演されました。
実はわたしはチケットを申し込んでいたのですが、体調がすぐれなくて観に行くことができず、とても残念に思っていたのですが、たまたま劇団スタッフの一人から劇団内部の記録上映会をするのに誘っていただき、つい先日観に行きました。
「でこじるしー」の芝居は世の中の小さな悪意と大きな悪意、あの世とこの世、あちらとこちらが行き来する妄想と純情がバトルするドタバタ活劇で、障害を持つ中学生までの子ども役者を中心に縦横無尽に跳ね回り、しゃぺまくる痛快さに一度出くわしてしまうとハマってしまい、わたしにとって唐組の芝居と同じぐらい、かけがえのない芝居です。
古くは「ウェストサイドストーリー」か、あるいは最近のスマホゲームのように、悪者と良者が対決するアクションが定番なんですが、実は悪者とされる一派も善良だったりして、似たり寄ったりなのが面白いところです。それはおそらく、「感動ポルノ」とは無縁の「人をとことん信じる」障害者の過激な「やさしさ」や「純な心」が、実はひとの心や社会までもぐらっと動かすことがあることを、役者たちが知っているからだと私は思います。
障害者の芝居といえば文化祭の発表会などで、その日のために一生懸命がんばりましたと施設の職員や家族、ボランティアなど観客がどこか上から目線で見てしまう芝居とはまったくちがい、劇団「でこじるしー」の芝居は劇団「態變」と並んで言うのはおこがましいですが、劇団「態變」が身体表現からそこに立ち会う人を遠く時代と地球の果てまで連れ去っていくように、まさしく昔寺山修司が演劇の可能性について、政治的な革命は人間のごく一部で、演劇は政治が届かない時代をゆさぶり動かすもう一つの革命だといったことをそのまま実現している稀有の芝居のひとつだと思います。
チラシによると、

ここは様々な人が集まるシェアハウス「ディスッテールハウス」そこには、超高級な卵を産む不思議な人が住んでいた。そこに暮らすひかるは、ある日、好奇心から超高級卵を暖めてみたが、卵から謎の怪人ガニガニが現れて…ガニガニは言う「卵を産むには愛が必要なのよ!」果たして謎の怪人ガニガニの目的は…!真実を追い求めるジャーナリスト、卵の国の王、最強の姉妹、様々な人間を巻き込んだエッグウォーズが今始まる…!

とあるのですが、正直物語はさっぱりわかりませんでした。
それは、じつは唐十郎の芝居でも同じで、以前は毎年状況劇場から唐組へと変わっても、唐十郎の新作芝居はとてもせりふが早口で何本かの複線の芝居が同時進行で絡み合い、なにかとてつもない大きな物語が、まだ受け入れる準備ができていない私の心にいつまでも残ってしまう芝居でしたが、最近は唐組の再演によって、すでに発表されている戯曲を後から読むことができて、芝居の深い構造を知ることができます。
ともあれ、それでも今回の「でこじるしー」の芝居では、コロナ禍において芝居自体も役者も大きな進化というか、大化けしてしまったことを感じました。
芝居の方は当初の「ウェストサイドストーリー」やスマホゲームのように、2つのグループのバトルから、すでに最近の芝居で第3の幻影が彼女彼らに乗り移り、物語を支配していくという3極構造が少しずつ現れていました。
今回はコロナという世界を震撼させる未曽有の体験のただ中で、狂言まわしのガニガニが「卵を産むには愛が必要なのよ!」と言い放った言葉で、もう一段の孤独の広野に芝居も役者も踏み込む覚悟のようなものを感じました。
くっきりと現れた最大の幻想は芝居の奥からやってくるのですが、実は会場の小さな空間とそれを取り巻く現実の理不尽さと残酷さと非情さと裏切り…、すなわちわたしたちが今生きる同時代の大きな悪意そのものであることに気づきます。
その時、障害を持つと言われるこの劇団の役者たちが自分の個を主張しながら助け合う集団を夢見るゆえに、自分が役を演じているだけなのか、それとも自分が役をつくっているのか区別がつかない領域へと自分を高めているプロセスが、これこそドラマツルギーの真骨頂と思わせるのです。
今回はビデオ上映で、なおかつ出演した役者たちの集まりでしたので、思いがけず役者たちの素顔を知ることができたのですが、演じた側の記録上映会でしたので、それぞれの役者が自分の演技はもとより、他の役者の演技についても、間があいたことやせりふが飛んだことなどを口々に話してくれるものですから、いつも以上に物語はわかりませんでした。
しかしながら、反対に役者たちが物語をつむぐプロデーサーとしても大きく化けていることを側で感じて、まるでこの劇団のもうひとつの「ディスッテールハウス」の生まれる現場に立ち会ったように感じます。
いやぁ、何事につけて、表現は現実よりもはるか先の来たるべき現実からやってきて、現実よりもはるかに早くその姿を見せてくれるのですね。

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