人間が最後にかかる一番重い病気は希望と言う名の病気

劇団でこじるしー第14回公演「君のおへそに100万ボルト2224」

 11月16日、箕面市立メイプルホール小ホールで、劇団でこじるしー第14回公演「君のおへそに100万ボルト2224」があり、昼の部に参加しました。人気劇団となり、昼と夜の2回公演となっても私が参加した昼の部は100席が満席になりました。
 劇団でこじるしーは2013年に旗揚げ。「障害のある人もない人も集まってひとつの演劇作品を作ろう」をコンセプトに毎年箕面で公演を行っています。

 果たしてこの友情がこの世界の、地球の危機の、人新世の未来を救済できるのか? 
 劇団でこじるしーの芝居が繰り広げる200年後の地球、そこではまだ自分たちが世界の中心だと思っている傲慢な人間たちがこりもせず覇権を求めて争っている。
 アイドル全盛の時代はすでに終末期の匂いを漂わせ、権力の支配と暴力の伝播がすさんだ心をますます孤独に貶めていく…、そんな不穏な空気を漂わせながら、芝居に立ち会ったわたしたちを妄想空間へといざないます。 

 時代は現在から200年後の2224年。売れない3人組アイドルユニット「開☆SOUNDS」は、ライブの炎上した理由を巡り今日も醜い争いを繰り広げていた。見かねた事務所社長は、売れっ子トップアイドルを引き抜き、グループに参加させテコ入れを図る。
 某有名音楽フェスへの参加のために、主催プロデューサーのイ・ランド宅で、ランドの家族の協力を得て、合宿するアイドルたち。しかしその裏にはトップアイドルのへそエネルギーを狙う、恐ろしい計画が待っていて、それはやがて国を揺るがす大事件に発展することになる。カミナリ族、ハラ神の戦士、風の一族、そして人間。様々な種族が共存する200年後の未来。それぞれの譲れない思いを抱き、種の存続をかけた戦いが今始まる…!
 今年劇団でこじるしーがおくるのは、未来型アイドル系エンターテインメント。2016年初演時から、大幅改稿いやもはや新作レベル!乞うご期待!(パンフレットより)

はるかむかし、アイドルが世界を救えると思えた時代があった

 8年前の初演を観ていたはずが、アイドルの話ということ以外まったく忘れていたわたしは、パンフレットに書かれているそのままに新しい芝居として楽しみました。
 彼女彼らの芝居にはいつも対立する集団同士のバトルが繰り広げられるのですが、その背景にはおそらく出演する役者たちが日常的に慣れ親しんでいるアニメやゲームの疑似戦争があるのだと思います。ちなみにわたしは若い頃から戦闘ものや暴力対決を見せ場にするエンターテインメントが苦手なんですが…。
 わたしの芝居初体験は子ども時代に見た大衆演劇で、その後は青春時代に大島渚の「新宿泥棒日記」の劇中劇ではじめて唐十郎の「由井正雪」が衝撃でした。それまでわたしはテレビ以外に芝居や映画は人情物や日常のささやかな出来事、純情物や少しどきどきする恋愛ものしか見たことがなかったからでした。
 映画の中の短い時間でしたが、状況劇場の最初の黄金期とも言える名優奇優怪優が繰り広げるスぺクタルと饒舌なセリフ、そこから立ち上がるドラマツルギーがどこまでも上り詰める絶頂間は今でも忘れられません。そして、路地裏の小さな純情物語の中から権力装置としての「国家」が現れる瞬間に立ち会ってしまうぞっとする感覚もまた、はじめての経験でした。
 劇団でこじるしーの場合は時代も世代も世相も世界もちがう異次元の空間を疾走する若い役者のスピードについていくのに必死で、年老いたわたしの心にまったく新しい風景を見せてくれるのがたのしくてたまりません。この劇団もまた一度味わってしまうと離れられない媚薬のような毒薬のような、なにかいけないものに触ってしまった後悔とともに、わたしを誰も知らない秘密の荒野へと誘うのでした。

ブラックホールの暗闇の彼方に光はまだ待っていてくれるの?

 時は200年後の世界、その100年後、わたしのいる現実の世界からは300年後の時代からやってきた「カミナリ族」から、すでに人間が滅びてしまっている厳しい未来を知ることになります。カミナリ族は人間のおへそのエネルギーで生きてきたのですが、地球の破壊をくりかえし、やめることのできなかった人間自身が二酸化炭素を出し続けたために地球で生きられなくなったのでした。カミナリ族もまた人間のへそのエネルギー供給が途絶えたため、まだ人間がかろうじて生きている時代にタイムスリップし、人間たち、その中でも特にエネルギーの力が強いアイドルのへそを狙ってやってきたのでした。一方、風の一族は二酸化炭素を吸うことで生きています。
 カミナリ族とハラ神の戦士と風の一族、そして人間のバトルは、どこかわたしたちの世界の現実と合わせ鏡になっていると思いました。エネルギーをつくるために人間は二酸化炭素を増殖させ、風の一族と言う植物たちだけでは減らすことが出来ない今、彼女彼らの生存をかけた戦いは、対立しながらも実は共通の願いがあるように思うのです。
 彼女彼たちのたたかいは、実は共にこのかけがえのない地球をどうすれば守れるのか、そして300年後には滅びてしまう人間のゆがんでしまった心をどうすれば救済できるのかを、切なくも厳しいまなざしでみつめようとしているように思います。 

傷ついた心を救済できるのか、暗闇を抜けたところはまた暗闇なのか?

 その世界はわたしがいなくなったずっと先にあり、実際は100年単位ではなく、もっと切羽詰まった気候危機の行く末にあり、果たしてわたしたち人間は絶望の未来を変える事ができるのかと、心が暗くなってしまいます。このままでもすでに地球を守るのが無理かも知れないと言われている中、今はまだ世界の運命に絶大な影響を持つアメリカの大統領にトランプ氏が返り咲き、「気候危機は詐欺」として化石燃料を食べつくそうとしています。そんな世界の行きつく先は無数の難民を生み出し、いのちさえも奪いつづける貧困と飢餓と戦争と侵略と虐殺という、今わたしたちの足元に広がる分断と排除の殺伐とした世界であることでしょう。
 8年前の初演時にはまだかすかな希望を感じられる芝居でしたが、今回の芝居では芝居の終わった後の現実の世界が決して明るいものではなく、もしかすると「人間が最後にかかる一番重い病気は希望と言う名の病気」といった寺山修司の言葉が現実になるのではないかと思わせました。
 それでも現実の人間社会がそうであるように単純に正義と悪が用意されるのではなく、積み重ねられた「小さな悪意」と対決する「埃まみれの友情」が裏切りや嫉妬を赦しあい、諦めや絶望を分かち合う時、わたしたち人間は話し合いと助け合いによって共に生きる勇気を持てるのかもしれないと、飽きもせずかすかな希望を残して、会場を去りました。
 演じた役者たちは変わらない熱情と絶対的な友情をエネルギーに、自らの役を演じ切りながら他者へのまなざしを欠かさず、素晴らしい芝居をつくりあげました。台本はおそらく役者ひとりひとりのためのいわゆる「あてがき」だと思うのですが、彼女彼らは芝居が始まってからもメイキングをくり返し、「あてがき」すら越えていく芝居のもっとも魅力的な瞬間にたどりつくのだと思います。劇団の出自は障害者の「放課後デイサービス」ですが、すでにそのフレームから遠く離れ、「どうにもとまらない」劇的空間に連れて行ってくれる劇団としての存在感がますます感じられる素晴らしい体験でした。