東浩紀が見た風景は彼をどう変えるのか

東浩紀が朝日新聞に「原発20キロ圏で考える」という一文を寄稿していました。このひとのことは「朝まで生テレビ」や朝日新聞で一年間、コラムをもっていた程度しか知りませんが、何かと物議を呼ぶ言動で知られているようです。
一貫して、新しいメディアであるツイッターやフェイスブックなどを通した情報が、マスメディアをこえて広がっていくことを評価していて、旧来の評論は今の新しい動きを否定的にしかとらえられない以上、去っていくしか道はないと言っています。
そこで、新しいメディアはそれ自体が思想であると捉えるのか、「東浩紀よ、おまえがどう考えるのかがたいせつなのであって、メディアはそれを伝える手段にすぎない」と捉えるのか、その入り口論でいつも議論されてしまいます。
わたしは、東浩紀など若い人たちが時代をどうとらえているのかに興味があり、わたしたちの考える「恋する経済」や「助け合い経済」と障害者市民事業について渡り合わないといけない相手は彼らだと常々思っていました。なぜなら、わたしの育ってきた1960年代から2000年までの成長から繁栄の神話と、その後の神話の崩壊へとつづく時代をつくった高度経済成長、都市集中、GDP信仰、生産性神話と富の分配、新自由主義経済という流れの中で、障害者の権利を勝ち取っていくたたかいは、その時代の底流の社会のあり方を問題にしつつも、社会からは「富の分配」や「社会的なコスト」としてしかとらえられず、障害者を社会のかけがえのない一員とする社会へと作り変えるまでにはいたらなかったこともまた事実だと思うからです。
経済は成長しなければならないと思うひとたちがよく言う「失われた20年」に登場した東浩紀などの若い評論家や独立起業家の存在は、障害を持つがゆえに働くことをこばまれ、働くことを求められない人が自ら業を起こそうとする時、実はもっとも近い存在でもあるのです。彼らは「大衆社会」が終わり、一億総中流神話が崩壊した後の新自由主義経済の申し子のような傲慢さはあるものの、いままで「こうあらねばならない」と押し付けられてきた社会の決まりから解放され、もっと自由に「個」を主張し、自分らしく生きることを提案することで多くの若者の支持を得ています。
彼らとちがい、一般企業への就職を拒まれた障害者が「業を起こす」動機はより切実なものがあることを彼らに知ってもらいたいものの、彼らの一般社会や一般経済へのたたかいはわたしたちのたたかいとそんなに無縁ではないとわたしは思っているのです。

そんな彼が原発警戒区域の浪江町を訪れ、見た風景を伝えた朝日新聞の記事はとても真摯でした。
「町立浪江小学校の門扉が開け放たれていた。昇降口を覗くと、靴箱が倒れ、色とりどりの小さな子供靴が散乱する光景が目に入った。避難場所だった形跡があり、上がらせていただく。ちょうど帰宅準備中だったのだろうか、ある教室内では、机ひとつひとつにランドセルが載せられ、文具や教科書をつめこんだまま放置されていた。黒板には3月11日の日付と日直の名前。後ろの壁には習字と工作と担任が寄せた丁寧なコメント。何年もかけて積み上げられた学校生活がなんの予告もなく断ち切られた、その暴力性が胸を衝く。子供たちはランドセルを背負う間も靴を履き替える余裕もなく避難し、そして戻ることができなかったのだ。
浪江町の人口は約2万。都会の感覚では決して大きな数ではない。けれどもそれは、独自の歴史と文化を抱える単位として見ると、じつに大きな数として迫ってくる。町を捨てるとは、単なる人口の移動ではない、それら無形の財産を無残に破壊し放棄することを意味している。
なるほど、浪江の子に新しいランドセルを贈ることはできよう。しかし、警戒区域内に放置された「あの」ランドセルを送り返すまで、果たしてどれほどの時間が必要とされるのか。」
そして、今後原発のコストを巡る議論には以上のような「喪失」を算入する方法を考えだしてほしい。喪失の大きさを忘却したところに、復興も希望もありえないと、続けて書いている。
彼は原発推進派でも反対派でもないと言っていますが、最後の言葉の次に来るのは「やはり原発はなくすべきだ」といっているように思います。
別のところで彼は、東日本大震災前に書いたものは「黒歴史みたいなもの」と否定的なコメントを残し、東日本大震災以降、自身の中で大きな変化があり「ニュー東」になってしまったと語っているようで、これから東浩紀がその変化をどのように語ってくれるのかとても楽しみです。

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