東日本大震災から9年とコロナショックから学ぶこと

東日本大震災から9年がすぎました。
時が過ぎるにつれて被災地以外では9年前の記憶が薄れていくのはやむをえないのかもしれません。わたしもまた、年に一度訪れる3.11の日に各新聞やテレビなどマスコミが震災の記憶を残し、被災地の人々の苦闘と再生の9年を報じるのを見て忘れてはいけない記憶と記録を思い返すにとどまり、被災当事者の方々に申し訳なく思います。
おりしも新型コロナウィルスの蔓延がとどまらず、だれもが見えない脅威におびえている今、放射能汚染という見えない脅威は特に福島県やその周辺地域だけの問題とされます。
それも9年も経った今、県外に避難した人、福島にとどまる人、避難先での理不尽な差別、被災者同士の分断、支援金の打ち切りと抱き合わせの帰還困難区域の解除と、9年という時が過ぎるにつれて解決困難な問題がますます深刻になっていく中で、国はオリンピックの聖火リレーの出発地点とすることで復興を全世界に宣言しようとしています。
新型コロナウイルス発生による世界的な大混乱と恐怖を前にして、安倍首相の突発的刹那的な対策はまるでオリンピックの開催中止を何としても避けたいという焦りと野心を感じるのはわたしだけでしょうか。
オリンピックの開催に向けてムードを盛り上げ、またそれに躍らせるわたしたち国民が彼の狙い以上に独り歩きして大衆翼賛ともいえる「かつて歩いた道」を望んで突き進むのに「待った」をかけたのが、日本でも世界でもたくさんの命が奪われ続けるコロナウイルスであったということは、とても不幸で悲しい事実だと思います。
阪神淡路大震災、東日本大震災、熊本地震など自然災害によって犠牲になった無数のたましいと、今も困難な生活を強いられる数多くの人々の無念や怒りを積み上げてもなお、わたしたちは原子力発電を必要とし、すでに神話となった経済成長にしがみつくしか道はないのでしょうか。

わたしは阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、被災地の障害者の支援活動に参加させていただきましたが、そのたびにそれをきっかけに「誰もが住みやすく、安全に暮らせる社会」へとわたしたちも社会も変わるはずだ、また変わらなければならないと思いました。
そうでなければ、理不尽にも突然夢を絶たれ、命を奪われたひとびとに申し訳ないと思いました。しかしながら、そんな思いもまた被災した人々には失礼な言い分で、彼女たち彼たちが受けた理不尽な暴力を踏み台にして新しい社会のありようが描かれるはずもなかったのでした。
それでも9年の時が過ぎた今だからこそ被災地とつながり、もう一度これからの社会のありようを共に考え実行していくことは、生き残った者としてこどもたちに一縷の望みをたくすことなのではないかと思います。そして、長い目で見れば「より早く、より遠く」と暴力的に突き進んできたこれまでの経済ではなく、身近な暮らしとつながった「よりおそく、より近く、より寛容な」経済がわたしたちを豊かにするのではないかと思うのです。
国が原発をやめないのは、いや、やめられないのは成長神話を捨てられないからだと思います。戦後すぐの生まれのわたしは進歩や成長は善で、後退することは悪だと教えられてきたように思います。努力することや一生懸命働くことのすばらしさを、進歩や成長にすり替えてきた資本主義経済は立ち止まることを許さず、その成長に役立たないとされ、「生産性がない」とされるひとびとを振り落としてきました。
ともあれ、東日本大震災と原発事故は100年の成長神話がとても危うく、東北にとどまらず誰かを踏み台にしてなりたっていたことを思い知らされました。福島のひとびとの言葉では表せない窮状はこれからもますます過酷になっていくことが明らかなのに、原発を止められないわたしたちの社会は何なんでしょう。
新型コロナウィルスの恐怖はどこかの誰かから感染する恐怖だけではなく、どこかの誰かを感染させる恐怖でもあります。世界的な拡散を前にして、どうしても一定期間、国も社会も個人も接触を避け出会いを避け、いわば心も体も「鎖国」状態にすることで身の安全を保とうとしますし、また国や社会からもそれを求められます。こんなに社会が恐怖と不安で覆われる中、緊急事態宣言は必要だと思ってしまうこともやむをえないのかもしれません。
わたしは、当面はこの困難を乗り越えるために多くのことを受け入れるはやむをえないとしても、コロナショックの後の世界の在り方やわたしたちの暮らしの在り方を再度見つめなおすべきなのではないかと思います。
ひとつは新自由主義のもとでのグローバリーションは今回のコロナショックのようにその副作用もまた世界中に蔓延してしまうことからの脱却です。すでに世界に広がる格差もまたのっぴきならないところにまで来てしまった今、ポスト・コロナショックの世界はお金や物やサービスや情報が利益や効率を求めて瞬時に世界を駆け巡るネットワークではなく、足元の暮らしから顔の見える関係を積み重ねるしなやかで取り返しのつく助け合いのネットワーク、誰かや何かを排除することで成り立つ社会ではなく、多様な人々が助け合って共に生きる持続可能な社会こそが、GDPで測る社会よりも豊かで幸せな社会であることを、もう一度かみしめたいと思うのです。
もうひとつは、新自由主義のもとで公的なサービスの民営化、規制の緩和を進めることがよいこととされてきましたが、医療や保険、健康などの基礎的な基盤を削ってきたことや、種子法廃止や水道民営化などにも見直しが必要なのではないでしょうか。
そして、金融政策では解決しない経済恐慌にも似た状況から、まずは需要の創出がもっとも優先されなければならないなら、消費税をまず5パーセントに引き下げることではないかと思います。現にコロナショックで忘れがちですが、それ以前に昨年秋の消費税の増税が経済を落ち込ませたことが数字に表れていました。消費税減税は増税と逆に低所得者にもっとも恩恵が行くことになるのではないでしょうか。それから所得税の減税か5万円の個人給付、休業補償や所得補償を組み合わせた「国民救済ミクス」を望みます。そして、内部留保が極端に多い大企業もまた自社株買いをするよりも日本社会で共に生きる企業として、今こそ本業の経営自体の社会貢献、富の分配を実行してもらえないものでしょうか。

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