東日本大震災から5年・成長しない豊かさ

東日本大震災から5年が経ちました。阪神淡路大震災が発生した1月17日とおなじように、3月11日前後になるとマスコミを中心にそれぞれとの人の「あの時」と、奪われた命、そして時を経た現在の暮しと心のありようがつづられます。時が過ぎるにつれてその語りには、ひとりひとりの人生やひとつひとつの町のその後の足跡が少しずつ「語られる歴史」へとファイル化されていき、よくも悪くも整理整頓されていくジレンマを感じます。ひとりひとりの肉声は決して整理されないまま、「あの時」をかけめぐり、心の底をうごめいていて、その悲しみや悔恨や憤りは決して他者にわかるはずもなく、また伝えられないものなのかも知れません。
わたしは阪神淡路大震災の時も東日本大震災の時も、被災地の障害者の支援活動にかかわりましたが、そのたびにそれをきっかけに「誰もが住みやすく、安全に暮らせる社会」へとわたしたちも社会も変わるはずだ、また変わらなければならないと思いました。
そうでなければ、理不尽にも突然夢を絶たれ、命を奪われたひとびとに申し訳ないと思いました。
しかしながら、そんな思いもまた被災した人々には失礼な言い分で、彼女たち彼たちが受けた理不尽な暴力を踏み台にして新しい社会のありようが描かれるはずもなかったのでした。

それでも5年の時が過ぎた今だからこそ被災地のひとびととつながり、もう一度これからの社会のありようを共に考え、実行していくことは、生き残った者として未来をデザインし、こどもたちに一縷の望みをたくすことなのではないかと思うのです。
最近になり、被災地の人々が自ら業を起こす活動が増えています。被災地と言っても地域によって状況は違いますし、個々のひとびとひとりずつ抱えている問題も違うわけですから、自ら業を起こすことが被災地全般、ひいては日本全体に共通した新しい取り組みとされてしまうことは少し危険です、しかしながら反対にそれが可能になって自立経済が立ち上げていくこともまたひとつの希望ではないでしょうか。
起業といえばIT起業や最近大流行のスマホのゲームなど、若い人の華々しい活躍がよく報じられますが、地域に根差した農業など過疎地での若者の活動や、生活に密着した女性たちの地道な活動も伝えられるようになりました。
被災地での起業はまさしく社会的起業で、地域で助け合いながら暮らしをつくり、少しずつ雇用を生み出す活動は震災前のコミュニティを再構築しながら、より地域を愛おしく支えていくことになると思います。そして、長い目で見れば「より早く、より遠く」と暴力的に突き進んできたこれまでの経済ではなく、「よりおそく、より近く、より寛容な」経済をめざす活動であり、それこそが被災地のみならず日本と世界の新しい政治経済のシステムの構築につながる冒険であると信じてやみません。願わくば被災地に芽生えるその愛おしいコミュニティに、障害者が参加し、担っていくことを…。
新しい経済活動の形がどんなものになるのかはこれからのわたしたちの課題ですが、少なくともそのシステムに原発はまったく必要のない事は確かなことだと思います。
くしくも9日、大津地裁で高浜原発3、4号機の運転差し止めの仮処分が下されました。運転中の原発の運転差し止めは画期的なことで、震災以後電力会社と国が再稼働をすすめ、最後のよりどころとしての司法もそれを容認してきた流れを断ち切った大津地裁の勇気と未来への冷静な判断に敬意を表するとともに、この間粘り強いたたかいをゆるめず仮処分を導き出した方々に頭が下がる思いです。

国が原発をやめないのは、いや、やめられないのは成長神話を捨てられないからだと思います。「原発の問題は原発以外にある問題」で、日本の経済成長を支えてきた資本主義そのものにかかわる問題なのでしょう。戦後すぐの生まれのわたしは進歩や成長は善で、後退することは悪だと教えられてきたように思います。努力することや一生懸命働くことのすばらしさを、進歩や成長にすり替えてきた資本主義経済は立ち止まることを許さず、その成長を邪魔するひとびとを振り落としてきました。
成長や発展をもとめて周辺の地域を開拓しつづけた結果、すでに開拓すべき「未開の地」がなくなると、だれかが昔言いましたが医療と保険とサプリメントで「資本主義の最後の植民地」であるわたしたち人間の体と心を開拓し、グローバリゼーションのもと金融とIT革命によって利益を求めるようになりました。
そして、とうとうマイナス金利という、投資しても利潤どころか元金も減ってしまう(簡単にそうとは言えませんが)事態を、資本主義の終焉と宣言するひとたちも増えてきています。
それでもわたしもふくめて、どこかで成長することで豊かになるという上がりっぱなしの凧のような幸福幻想の呪縛から抜け出せないため、アベノミクスというカンフル注射をうちつづける政権を支持し、いつかは自分のところにもそのおこぼれがやってくることを信じてやまないひとびとが数多くいらっしゃると思います。わたしは箕面の豊能障害者労働センターと出会うことで、わたし自身の100年の成長神話の悪夢からさめましたが、それでも仕事をやめ、一般の会社で定年を迎えていないため通常の半分程度の年金生活をはじめた今、いまだに成長神話のさ中にいた頃のサビをそぎ落とすまでには至っていません。
ともあれ、東日本大震災と原発事故は100年の成長神話がとても危うく、東北にとどまらず誰かを踏み台にしてなりたっていたことを思い知らされました。
とてもじゃないですが、福島のひとびとの災難という言葉では表せない窮状はこれからもますます過酷になっていくことが明らかなのに、原発を止められないわたしたちの社会は何なんでしょう。どうしても「経済成長」の悪夢から逃れることはできないのでしょうか。
わたしは被災地の助け合い経済をはじめとする全国各地の地域経済の担い手のひとびとが求める「成長しない豊かさ」、「原発を必要としない豊かさ」が資本主義終焉の後の世界と日本の経済の希望となっていくのではないかと思っています。そして、わたしもそのひとりとして何かするべきことを見つけていきたいと思います。
そして今回の大津地裁の英断は、未来からの使者としてわたしたちに勇気を届けてくれた愛おしいサイン・合図なのだと思います。

東日本大震災から5年・成長しない豊かさ” に対して6件のコメントがあります。

  1. 帖佐太郎 より:

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    本当に、原子力発電の恐ろしさは身震いするほどです。
    原爆が落とされてから、世界はそれまでとは違った歴史を歩まざるを得なくなったのではと痛感します。本気で行う戦争はできなくなったかわりに、原爆・水爆をちらつかせながら、局地戦争をするというのが世界の実態です。
     我々日本人は原爆、放射能の怖さを一番知っていながら、そして福島原発は全然収束していないというのに、何故全国に散らばっている原発を再稼働するという方向に向かっているのか不思議としかいいようがありません。
     ドイツは立派ですね。いましばらくは、原発で発生させた電気をフランスから購入せねばならない期間はあるにせよ、徐々に自然エネルギーで賄える方向にもっていくはずです。第二次世界大戦後のドイツは、優等生の道を歩んできたと思います。

     日本人は今こそ、覚醒して、何が今後の50年、100年後の日本をよくするのか真剣に考えねばなりません。放射能で汚染された水が次から次から溢れ出て、それをタンクに詰めて、そしてそれを保管するための土地を確保していかねばならない。なんという馬鹿げた光景でしょう!こういう状況を目の当たりにしながら、なぜ原発廃止に向かっていけないのか、明治維新の志士達はさぞかし情けなく思っていることでしょう。自然エネルギーに転換した時に、大勢の原発利益関係者は困ることになるでしょうが、ある一定期間補償を政府がして、転職していけるような制度が必要と思います。
     

  2. tunehiko より:

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    帖佐太郎さま

    ご返事するのが遅くなりました
    ごめんなさい。
    原発のない社会が経済力もなく若者に夢も希望も渡せないダメな社会だという喧伝と、「一億総活躍時代」という幸福幻想にまどわされています。
    わたしは原発のない経済は成長幻想から解放された社会で、それは原始時代にもどるのではなく、いまあるかけがえのない自然と社会ストックを一部のグループや個人の「私有」から、分かち合える経済へと進化することだと思います。そした共産主義が全体主義国家によってゆがめられてしまったことからも解放された社会であってほしいと思います。

  3. 帖佐太郎 より:

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    実はtunehiko様ブログにたどり着いたのは、「島津亜矢」が発端なのです。私はtunehiko様より10歳程下の者ですが、今この歳になって突然ある歌手のファンになってしまうという事態が自分に起こってしまい(2ヶ月程前)、自分でも呆れながら、彼女の芸に酔いしれている今日この頃です。そして、いろんな方のブログを覗いている中で当ブログに遭遇した訳です。島津亜矢論、面白いです。楽しく読ませていただいてます。tunehiko様のブログにはいろんなテーマが包含されており、島津亜矢論はその中の一つでありますが、文面からその存在は小さいものでないことが察せられます。他のテーマも現代の生活、食事、グローバル経済の弊害、金を稼ぐということ、社会保障のありかた等日頃私も疑問に思うことと関連していることもあるようですので、少しずつ拝読させて頂こうと思います。

     原発の話ですが、私も川内原発から30KMくらいのところに住んでいることから本当に他人事ではなく、心配している身です。心配するのみでなく今後行動も起こしていかなければならないのですが。
     大津地裁の原発運転差し止め仮処分は画期的で、法曹界もちゃんとした常識的な判断をできる人がいたのだなと安堵いたしました。しかしながら、穿った見方かもしれないですが、高等裁判所や最高裁判所に持ち込まれた場合どのような審判が下されるのか、特に最高裁判所は権力志向の強い人や政治家と裏での繋がりが多く、最終的には政府の意向に従うようなものになるのではと危惧しております(私の偏向的な見方に過ぎないのであれば幸いですが)。
     原発の闇は本当に凄いのですね。私が政府が原発を今だに推進しようとしている要素は以下のようなものがあると思います。あくまで私見で的外れな部分もあると思いますが。
    ①政府(場合によっては国粋主義者含む)が戦争が起きた時に、先方が核を使うなら、日本もこれに対応せねばならないため、その技術を蓄積するため原発を隠れ蓑にして核開発を進めており、それを放棄してはいけないと思っているから。②原発産業(アメリカ、フランス、イスラエルや東芝等)との経済的つながりが大きく、利権者の意向を無視できないから。③原子力発電所の地元は原発補償をもらっており、それがないと地元経済が成り立たないと思っているから。④原子力発電に関する学者、研究者がまっとうな意見を発言できていないのではないかということ(御用学者が多々いること)。⑤放射線汚染の実態がしっかり掴めていないこと。⑥現時点で、放射線汚染で死亡した人の数がそれほど多くないため(ガン発生率等は判明していると思いますが)、放射線汚染の恐ろしさを人々が軽視していること。⑦放射能廃棄物の処理が本当に大変(場所の確保、経済的負担、長期にわたること)なことが認知されていないこと。⑧原発に関する報道をするマスコミが、その会社のそれぞれの従業員が、やはり普通の感覚でただ高額の給料をもらえるというような理由で就職したに過ぎない人々であって自分の会社(例えばTBSでもどこでも)の意向(上層部)に従って仕事をこなしているだけだから。⑨原発に代替する自然エネルギーなどは規模が小さく安定性に欠けていると現時点では思われていること。⑩マスコミ自体がアメリカの金融資本の手先(眉唾ですが)であるため、アメリカ原発利権に反対することが難しいこと。⑪日本人の喉元過ぎれば熱さをわすれるの体質が原発問題を究明する徹底さを弱めていること等です。

    つらつら、まとまりがつかない文章を書いてすみません。

     

  4. tunehiko より:

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    帖佐太郎様

    まったくもって同感です。
    このブログを島津亜矢の記事から入ってくださったのですね。
    わたしも7年前のある日突然、島津亜矢を知り、しばらくはテレビだけで見ていたのですが、それからライブに出かけるようになりました。、このブログを始めたのは東日本大震災の直前で、わたしは福島原発の事故によって日本や世界のあり方を変えるのではないか、変えなければいけないのではないかと思いました。事実、ドイツは原発をなくすことにしましたし、実はアメリカもあの事故を日本人のわたしたち以上に重要な事故として影響調査をしていたといいます。
    なのに、わたしたちの社会は何事もなかったかのように、「世界最高の技術力」で原発をコントロールできると言い張っています。
    これからますます福島原発の事故による問題がだんだんとわたしたちの目にはっきりと見えるようになってくると思います。
    今の社会は原発をなくすといったり憲法や民主主義や平和について考えたり意見を言ったりするだけで、かつての過激派とみなされてしまうぐらい、偏った危うさを深めていると思います。
    このまま突き進めば、必ずや取り返しのつかないところに追い込まれてしまうと思い、ブログでも意見を書いていこうと思うようになりました。
    わたしにとって島津亜矢は、そんな気持ちや覚悟を持つことを後押ししてくれる大切なディーバ(歌姫)なのです。
    ジョン・レノンや忌野清志郎のように、もしかすると歌がひとを救ったり社会がいい方向に向かったりするような、一般に「甘い」と思われることが、島津亜矢によって切り開かれると本気で思っています。

  5. 帖佐太郎 より:

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    tunehiko様

    お久しぶりです。

     島津亜矢さん、地震で本人が少し力を落としていやしないか心配でしたが、NHKのど自慢や歌コン見る限り大丈夫のようです。「阿吽の花」は味のある曲ですので、じわじわ浸透しロングヒットになればと願ってます。「掌」はご存じのようにアマゾンで少しだけ視聴できるのですが、なかなか彼女の良い部分が活かされるような曲調で期待が持てます。

     さて、川内原発の話ですが、政府、九電等何を考えているのか、熊本地震が起こっても平気で運転続けています。日本という国はもう一度福島原発事故のような事故が起きないと目が醒めないのでしょうか?気違いとしかいいようがありません。福島原発で住めなくなってい
    たがつい最近避難解除された地域のドキュメンタリー番組がNHKで先日(20日くらい前)放送されましたが、住居が動物の住みかと化し、畑は荒れ放題となっており、人が再度住めるようになるには随分、手間や時間がかかるようです。そして避難解除されたとはいえ放射線も幾らか残っているのです。本当にそれまで住んでいた人たちから考えると「故郷」が突然無くなる、コミュニティが突然なくなることなんですね。そら恐ろしいことですよ。
     自然災害には限度がないわけですよね。震度7に耐えられたって震度10(実質上震度8以上の揺れがあってもすべて震度7として計測するらしいです)が起こったら原発建屋が崩れるかもしれません。結局、阿呆な博打をうっているようなものです。これは例えば原発と関係なく一般的に海岸線に堤防を作る時に津波の高さを15Mと想定するか20Mと想定するかとはちょっと次元が違う話と思います。津波が堤防を越えた場合、大きな被害はでることは否定しませんが、放射線の被害はまた特別なものだと私は思ってるのですが・・・
    つまり、川内原発がもし地震、津波で壊れ放射線が漏れたら偏西風で九州全体そして四国、中国地方、果ては近畿地方まで汚染される可能性もあるわけです。
     一番情けないのは、地域を守らなくてはいけない人である知事が原発運転に賛成なのですから、開いた口が塞がりません。
     ただ、川内原発の運転再開にGOを出した高等裁判所宮崎支部は今回の熊本地震発生の約1ヶ月前でした。これが順番が違っていたら判決結果は運転差し止めになっていたかも知れないのですが。
     川内原発は布田川断層の一番西側の先端から南に降りたところにあり、もしそこが熊本地震のような震源地となったら相当川内原発の場所にも揺れがくると思われます。政府、九電関係者はバカな楽観論者なのでしょうか。

  6. tunehiko より:

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    帖佐太郎様
    ずいぶん前にコメントくださったのに、地域のイベントを必死に準備していましたので、返信が今になってしまいました。おゆるしください。
    イベントの方はとてもいい結果になり、ほっとしています。
    「阿吽の花」はとてもいい歌です。わたしは村沢良介氏の一連の作品がすきでしたので、今回の曲想にもかなり深いものがあり、じわじわとヒットしていくことをねがっています。
    ところで、熊本地震はだんだんと被害の大きさがわかってきて、被災された方々はこれからとても大変な暮らしを強いられることでしょう。わたしは被災障害者支援活動を見守りながら、自分にできることを真剣に探していきたいと思っています。
    原発の問題といい、憲法を変えてまでも抑止力という名の軍事力をたかめようとする問題といい、沖縄の米軍基地がもたらす理不尽な暴力といい、どうもわたしの思う国民と、かの政権が「守る」と喧伝する国民とは別の人々を指しているように思います。彼らは結局「多少の犠牲があっても国民のためなら仕方がない」という言い方で、「多少の犠牲を強いられる」たくさんの人々を国民とは思っていないのだということでしょうね。

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