永六輔さん、ありがとうございました。永六輔さんの思い出2

1995年7月2日、永六輔さんは豊能障害者労働センター主催のトークイベント「「だいじょうぶ!永六輔ひとり応援団」に出演するため、大阪府箕面市の箕面市民会館(現グリーンホール)の舞台に立ってくださいました。
下の記事はその時の模様を記したもので、豊能障害者労働センター機関紙「積木」に掲載されました。


誰が想像できたでしょう。開場してすぐ、永六輔さんはもう舞台に立っていました。「開演前の場内整理です。あっ、今入ってこられた方、ご心配なく、まだ開演前です。あっ、本にサインですか。何でもやっちゃうと言いましたから、やっちゃいます。ロビーではいろんなものを販売しています。ご協力ください。」とか言いながら、いろいろな話をもう始めてしまいました。
ホールに入って30分の間にステージのすべての段取りを一人で決め、ひとりでなにもかもやっちゃう。それがまた、「ムム!なるほど」と納得。
すごい!のひとことを飲み込んで、すべてをまかしちゃいました。
永さんは、「名声」や「権威」をすべて受ける立場にあるはずなのに、自分自身にも他人にも、それらすべてを受けつけない。出会う人を、いつも「永六輔」ひとりのフィルターで真正面に受け止める。
永さんが作詞家でもあり作家でもあり何とかでもあるすごい人ではなく、お客さんひとりひとりを大切にするという、あたりまえに思えることからすべてを考え、つくり、それを自分で、自分の責任ですべてやっちゃうことがすごい!
開演前に舞台に出るのも、お金を出して来ていただいたお客さんひとりひとりに楽しんでもらいたいという気持ちからだと思う。
「ピアノを弾くひとを見つけておいてください。遊びたいから」と、言われていて、どうしようと思っていたら、間近になってOさんと出会いました。
「永さんが何をしはるか、わかりませんねん。当日の打ち合わせで決まるんですわ」と言うぼくたちに、「わかりました」と引き受けてくれた彼女に感謝します。
Oさんがいてくれてよかった。永さんのお話とOさんのピアノが、初対面にもかかわらずぴったりと息が合い、講演会とはひと味ちがったとってもたのしい雰囲気をつくりだしました。
「学校ごっこ」の設定で、「授業」の合間にOさんのピアノが入り、開演前もふくめてあっと言う間の2時間半でした。その間にお客さんの笑い、また笑い。
笑いながら、ぽつんと心に落ちる言葉。
卒業式で歌わなくなった「仰げば尊し」をお客さんといっしょに歌ったり、「君が代」を独自の歌い方で歌うなど、ユニークなイベントになりました。
戦後50年の論議を待たなくてもわたしたち自身、多くのひとを犠牲にしたあの戦争にいたるまでの「たったひとりのひと」に拍手する時代から、いまだにやって来ない庶民ひとりひとりが拍手しあう庶民の時代を求めてやみません。
けれどもまた、「仰げば尊し」を歌う歌わないが学校とか教育の枠の中と、ほんのひとにぎりの人たちの間でしか問題にならなかったのもまた、事実ではなかったのか。
歌もまた作った人間からはなれ、その時代のひとびとの心を通るものなら、歌にたくしたそれぞれの思いはその人にとってたしかな風景を描いているのではないでしょうか。涙ぐんで歌った人もいました。久しぶりに大きな声で歌を歌ったという人もいました。
この歌を卒業式で歌わなくなったことをまったく知らなかったという人もたくさんいました。そのことが問題なのだと思います。
箕面の民間デイサービスをしているグループがみんなで歌を歌おうと老人たちによびかけると決まって、「紀元節」の歌が出てくるという話を聞きましたが、老人たちが子どもの頃にはそんな歌しかなかったというだけでなく、どんな歌にもその歌の内容と別に、その歌を歌った時のその人の人生の風景が染み着いていることと関係があるのではないでしょうか。
そして、そのことをぬきにして、個人の肉体の回路を通らずにつくられる歴史や政治が、その個人の生活心情をまきぞえにしてしまう不幸があります。
「市民運動」から「庶民運動」へ。人間の体の中の途方もない長さの赤い血のトンネルを通りすぎる言葉や文化。時代をこえて、人の生き死にをこえてひとりがひとりに伝えていく、そんな思想が「にんげん」にはあるのだと、永さんの話を聞いて感じました。
そして、「遠くへ行きたい」をお客さんが歌い、永さんが手話をされましたが、舞台袖で永さんの立ち姿を見ていたら、その「いとおしさ」に涙が出ました。やっぱり、永さんはステキな人です。
7月2日の「だいじょうぶ!永六輔ひとり応援団」は、雨にもかかわらず720人のご来場をいただきました。わたしたちはご協力くださったすべてのみなさん、そしてご来場いただいたすべてのみなさんに感謝しました。
このイベントを企画したのは前年末のことでした。それから約半年、あの大地震が無数の人々の運命をはげしくゆらしたように、わたしたちもまたそのまっただ中で心をゆらしてきました。
はちきれそうになる心の振幅に体が追いつかず、被災障害者救援活動、バザーと、ひとつひとつのことをかたづけることで、「いまこの時」をかけぬけた半年でした。
その間に世の中は地下鉄サリン事件など、テレビの灰色のブラウン管が破裂するほど騒々しく、地震のことが遠い風景になろうとする時に、いつもわたしたちを「あの時」にとどめようとするもの、それは死んでもなお夢見つづける幾多の心と、死線をこえてがれきの下から立ち上がるいのちたちのきらめきうごめく合図のひとつひとつでした。
おそらく事実だけをつめこむ「歴史」の重箱におさまるはずもないひとりひとりの決定的な真実は書かれた書物の中ではなく、ひとからひとへ時の数珠をたどって語られてきたのでしょうし、この半年の体験はひとりひとりの人数分の真実として語られる時を用意しているのだと思います。
どんな書物にもどんな教科書にも抜け落ちている真実としての体験、学ぶ言葉ではなく、くちびるにたどるつくまでの言葉、くちびるを通らず「伝えたい」と身をよじり、息と風がからだとこころの境界をかけぬける声。
7月2日、わたしたちの前にあらわれた永六輔さんは、笑いの中にそんなごつごつとした声にならぬ声、言葉にならない言葉をいとおしくすくいあげ、わたしたちに届けてくれました。
わたしたちはそれらの言葉をたしかに受け取りました。そして、この半年けたたましくかけあがった非常階段の踊り場で、肩の力をほぐす機会に恵まれたのでした。
地震直後、箕面市民会館のロビーは箕面市役所に寄せられた救援物資で埋めつくされていました。7月2日、降りしきる雨の中を来てくださった人々でにぎわうロビーに立ち、たしかに時は過ぎたのだと思いました。
だからこそ、決して忘れられない「あの時」からはじまった時の回路をひた走り、「だいじょうぶ!」というメッセージを届けてくれた永六輔さんの友情に感謝します。
アンケート用紙に「永六輔さんひとりの応援団ではなく、今日の参加者全員が大応援団でした。」と書いてくださった方の言われるように、永さんと、わたしたちと、ご来場いただいたみなさんと、「遠方で行けないけれど」とはげましてくださったすべてのみなさんとの友情を分かちあう場となったことも。
そして願わくばこの友情が、ともに生きるすべてのひとびとの希望をたがやしますように・・・。
永六輔さん、みなさん、ありがとうございました。
また、このイベントの収益から被災障害者復興のための「ゆめ風基金」に50万円を基金させていただきましたが、ご来場の方々からも約12万円の基金を寄せていただきました。重ねてお礼を申し上げます。

水原弘「黒い花びら」

夢であいましょう ~ To the Memory of My Mother

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です