阪神淡路大震災30年 障害者は闘った!

NHK・Eテレ 障害者情報バラエティー番組「バリバラ」

 先日、NHK・Eテレの障害者情報バラエティー番組「バリバラ」の特集で、「阪神淡路大震災30年・障害者は闘った!」が放送されました。
 阪神淡路大震災の時、いのちをつなぐことが困難な状態にありながら被災地の障害者市民グループが結集し、被災障害者の救援活動に立ち上がりました。届いた救援物資を活用して地域の人びとに豚汁を炊き出し、独居の高齢者に手づくりの弁当を配りました。障害があるひともないひとも、みんなで助け合おうとした被災地の障害者たちの行動は地域全体を元気づけ、全国の障害者のみならずすべての人たちを勇気づけました。
 番組は当時の活動をけん引した福永年久さんを中心に取材し、30年前の障害者の状況と被災後の救援と自立生活の再生に向けた運動、そして今に続くその後の支援活動のひとつとして、被災障害者支援基金団体・NPOゆめ風基金の活動や、中学生といろいろな障害当事者との交流と避難活動などを丁寧に取材していました。
 福永さんたちはそれまでも、神戸・阪神間の障害者の自立生活と活動の拠点づくりを進める一方、共に生きる社会のありようを問い続ける運動で全国的にも知られていました。
 30年前の1月17日の朝、福永年久さんは家屋の一階のベッドに一人就寝中に地震が発生し、2階が落ちて生き埋めになっているところ、近隣の住民と介護者により救出されたそうです。それからは活動の拠点だった阪神障害者解放センターのメンバーのみならず、当時姫路に住んでいた運動仲間の大賀重太郎さんと連絡をとりながら被災障害者の安否確認を始めました。
 車いすでも使用可能な避難所を交渉の末に借り、数多くのボランティアとともに炊き出し、水運び、訪問などの復興活動をつづけました。神戸市内に被災地障害者センターが立ち上がると阪神間の情報も寄せ合い、周辺地域も含む被災障害者の状況を逐一、大阪を拠点に立ち上がった障害者救援本部に伝えました。
 全国の障害者運動と連携し、復興と再生に向けた活動は今もまだ道半ばではあると思いますが、その後の東日本大震災や熊本地震、昨年の能登半島地震など数えきれない自然災害における被災障害者の救援、復興、再生にその経験が生かされました。

余震におびえるわたしたちの胸に、被災地から疾走してきた切羽詰まった言葉が突き抜けた

「ごちゃごちゃいわんと俺に携帯電話5本と500万円を用意してくれ!」
 福永年久さんの放った言葉が、会議の空気を一変しました。
 その日、障害者救援本部の会議に大阪の障害者団体が集まり、これからどのように救援活動を進めるかという会議をしていた時でした。というのも、直接の大きな被害はなかったとはいえ激しい揺れに驚き怖れ、今もなお余震におびえるわたしたちの顔は硬直し、とにかくお金が必要だから街頭カンパをはじめようという話をしていました。
 「でも、街頭カンパだけではそんなにお金ができない」ともぐもぐと言ってた時に、被災地から来てもらった福永さんの大きな声が部屋に響き渡りました。
 それでなくてもだれもが日常の貧困の中にいて、いままでも大阪の都心の路上や地下鉄の前などで街頭カンパをしていても、被災した障害者の生活やその拠点を再開するだけのお金をすぐにみんなでつくることなどできるはずもないと思いこんでいました。
 「俺らの所は真っ暗なのに、大阪はネオンでいっぱいや。俺はだんだん腹立ってきて、ちくしょう、心斎橋でフグ食ってきたんや」。
 わたしたちは自分たちの怯えやカンパ活動で手に入るお金のことばかりに気を取られていて、今起こっている非日常の悲惨さ、理不尽さを自分事とは思えてなかったのだと実感しました。福永さんの乱暴とも思える言葉は、被災地の修羅場を潜り抜けてきた、切羽詰まった言葉でした。彼の言葉の中には、国を始め行政が障害者を一人の市民として当たり前に生きていける行政サービスを用意せず、その普通の要求を贅沢だと言わんばかりに自己責任と放置してきたことが被災障害者をより困難な立場に追い込んでいること、その憤りをそれぞれの地で障害者運動を続けてきた仲間が共有できないはずはないといういら立ちがありました。
 彼のその言葉で目が覚めたように障害者救援本部は猛スピードで救援活動をはじめました。行政への要望はもちろんのこと、当面必要な救援物資を全国の障害者団体に伝え、それぞれの地域で集めてくれた物資を被災地に届け、同時に始まった街頭カンパ活動など、全国各地の人々や団体からのお金が寄せられ、被災地の障害者の生活や地域拠点を再建・再生する資金になりました。また、介護サービスが今よりも極端に貧困な中で障害者生活を支えるボランティアの派遣も進めました。
 福永さんたちも避難仮設住宅の設置が始まると被災者の引っ越し作業をボランティアとともに行ったり、避難所の立ち退きで仮設住宅にまだ入れないひとたちのために、「らくだは楽か?」いうテント村を作ったり(その後テント村の住人の仮設住宅への移住後、テント村を廃止)と、被災者自身による被災障害者支援活動を続けました。一方、神戸の被災地障害者センターも自前の仮設住宅をつくり、その後2005年には「拓人こうべ」と名前を変え、障害者の為だけではなく、障害を持つひとも持たないひと共に生き、人間としての権利を大切にされる社会を目指して現在も活動を続けています。
 また、障害者救援本部の活動は当面の再建と再生を見届け、いつ起こるかわからない自然災害への救援団体・ゆめ風基金へと軸足を進めて今に至っています。

地域で障害のある人が当たり前に生活している社会にならないと

 1995年1月17日の朝、かろうじて被災を免れた豊能障害者労働センターの事務所にスタッフが集まりました。その中に当時スタッフだったわたしもいました。「バザーやって、売り上げみんな被災地の障害者に持っていこ」と、誰かが言いました。こうしてその年の3月に救援バザーを開くとともに、障害者救援本部の物資供給ターミナルを引き受け、被災地に救援物資を届ける活動を始められたのは、あの時の福永年久さんの「ごちゃごちゃ言うな…」が、他人事の怯えから自分事としての憤りへと勇気をくれたおかげでした。
 あれから30年という年月が流れました。わたし自身は箕面から江坂に引っ越し、最後はゆめ風基金の非常勤スタッフをさせていただいた後、能勢に引っ越してからは障害者運動とは離れてしまいました。面目ないと思いながらも、「バリバラ」で福永年久さんと、コメンテイターとして出演されたゆめ風基金の八幡隆司さんの姿を見て、とても懐かしく思いました。
 「もしこれからまた大地震が起きたら…」という問いに、福永さんは「自分が助かるかどうかもわからんし、あの時のような活動ができるかわからん」と答えました。
 八幡さんの指摘にもあったように、30年の間に国も行政もいろいろな制度をつくってよくなったように見えるけれど実際は何も変わってない。たとえば「避難行動要支援者名簿」を作成して、個別に避難を支援する制度はできましたが、災害発生時に十分に活用されているとは言えません。自治体の防災計画に障害当事者の参加と、その意見を組み込んだ計画づくりが求められているのだと思います。
 コメンテイターの玉木幸則さんの、「福永さんがずっと前から言ってたように、地域で障害のある人が当たり前に生活している社会にならないと、ほんとうの防災はできへん。結局災害の時だけ急に助け合うなんて無理やから」と言う言葉が心に刺さりました。