戦後民主主義の幻想がゆっくりと壊れていった1995年 

阪神淡路大震災で奪われたいのちへの祈り、託されたはずの6434人分の願い

 1995年1月17日、あの日から28年の時がすぎました。
 あの朝、当時住んでいた箕面の古い借家の天井が丸くなり、今にも寝ているわたしの上に落ちてきそうでした。わたしは尋常ではない揺れの真ん中でどうしたらいいかわからず、ただただ揺れが収まるまでの間に家が壊れないことを祈って布団の下で身を潜めていました。
 あの時、もう少し長い間揺れていたら、確実に天井が落ちてきて家がぺしゃんこになるところでした。わたしが助かったのは、ほんとうに運以外の何物でもありませんでした。
 余震が続く中でも少し落ち着いてきて、はじめてその頃同居していた息子のことが気になり、息子の名前を呼びました。
 「だいじょうぶや」という息子の声が聞こえて一安心しました。うろたえるばかりのわたしたち親とちがい、京都の大学に通学していた彼はいつもわたしたちがまだ寝ている間に朝食を済ませていたのですが、ちょうどコーヒーを沸かしていた時で、素早くガスを止め、食卓の下にもぐりこんでいたのでした。「なんてエライやつや」と思いつつ、まだふとんに潜り込んでいたところに、お迎いに住んでいた当時の豊能障害者労働センターの代表だった河野秀忠さんが心配してやってきました。「つねひこさん、だいじょうぶか。ものすごいゆれやったな」。
 テレビをつけると、阪神高速道路が途中でなくなったり神戸など阪神間の建物がことごとく壊れた映像が飛び込んできました。神戸の友人たちはもとより、がれきと土煙の下に閉じ込められたひとびとの安否はどうなのかわからず、つぎつぎとやってくる余震におびえ、今にも大きな地震がくるのじゃないかという恐怖…、ほんとうにふがいないことでしたが、まだ体も心もこの異常事態を受け入れられず、呆然としていました。
 そのうち、近所にあった労働センターの事務所で仮住まいをしていた梶さんの介護者から「台所の食器が落ちて割れたぐらいで、梶さんは大丈夫です。わたしは仕事にもう出ますので後はよろしく」と電話が入りました。「早よいかなあかんや」と妻にせかされ、事務所に行くと、玄関の上り口で梶さんが「わおーっ」と叫びました。プレハブの事務所は余震のたびにばりばりと大きな音を立て、わたしたちは抱き合いながら「わおーっ、わおーっ」と叫びました。
 それからひとりふたりとスタッフが集まってきました。みんな真っ青な顔で日常活動をつづける気力もなく、これからどうしたらいいかみんなで話し合いました。
 そんな時、転送転送でつぶれた文字で被災地の障害者の安否確認をはじめ、作業所や介護拠点の建物の被害を毎日送られてくるFAXがあり、かろうじて大きな被害がなかったわたしたちは自分たちの活動を通してできる救援活動に参加し、全国の障害者団体のネットワークの救援物資のターミナルとして活動することになりました。
幹線道路が損壊し、残された道も何時間も渋滞する中、この時のスタッフの原さんの大活躍で毎日のように被災地の数か所に救援物資を運んでもらいました。
車の運転ができないわたしは物資の調達を担当していて労働センターの事務所に張り付いていましたが、それでも何度か助手席に乗せてもらって被災地に入りました。
長い渋滞がつづく車から見る風景はどこを見ても信じがたいもので、住宅のがれき、ほこり、におい、一瞬にしてこわれてしまった、ほんの少し前まであったはずの生活。壊れかけの家々の切ない灯りがいっそう夜を暗くしました。がれきのそばに「無事です。○○にいます」という張り紙がたくさんありました。被災者の居所を書いただけの一枚の張り紙が、おそらくどんなマスコミよりも切実な情報でした。

資本主義でもなく国家社会主義でもない、助け合い社会主義は見果てぬ夢なのか

 阪神淡路大震災とそのすぐ後に勃発したオウム真理教による地下鉄サリン事件は、それまでの日本社会の「成功体験」に冷や水をかけただけでなく、その時は気づくこともなかった、薄氷の上に築かれた経済成長と戦後民主主義の幻想がゆっくりと壊れていく姿を予見していたのではないでしょうか。
 1995年という年は、あとから振り返れば日本の高度経済成長からバブルとその崩壊、そして失われた20年とも30年ともいわれる長い低迷スパイラルから低成長社会へと続く入り口の年でもあったのだと、今は思います。しかしながら、高度経済成長の残り火の中にあってわたしもまた「今日より明日はよくなる」という成長神話から抜け出せないでいました。
 思えば1989年のベルリンの壁崩壊から東欧革命、ソ連崩壊へと、社会主義体制が解体され、東西冷戦が終わり、アメリカを中心とする資本主義体制の一人勝ちとされ、その後の新自由主義と国家をまたぐグローバリズムがつづいてきました。
 しかしながら一方で新型コロナ感染症のパンデミックも重なり、世界各地で経済格差と気候危機が新自由主義の暴走への警告だけにとどまらず、資本主義はもとより世界の経済と政治を支配する権威と独裁に対する異議申し立てが少しずつ広がりつつあります。
 岸田首相がとなえる「新しい資本主義」は結局のところ私有財産の確保と拡大を求めるものであることは明らかですが、もし「新しい資本主義」というものがあるとすれば、偏ってしまった富が生む貧困と飢餓をなくし、「富の再分配」としての社会保障を求めるだけでなく、そもそも「富の再分配」を必要としない、様々なひとびとが参加し、助け合う社会…、それは限りなく資本主義から「新しい社会主義」の可能性を探すことではないかと思うのです。
 今、ロシアによるウクライナ侵攻でおびただしい人々の死が積み重ねられ、がれきの荒野がひろがる許されるべきではない現実は、国家による逆襲と暴力がその内外でわたしたちのささやかな夢や希望さえもあっさりと踏みにじることができることを見せつけました。個人の自由と人権を閉じ込める国家社会主義と共産主義、独裁国家への幻滅が流布されて久しく、行き先のわからないジェットコースターから振り落とされまいと必死にすがりつくしかないと思いこまされたわたしたちは、ウクライナの次は台湾有事だとアジア諸国に緊張をもたらし、憲法9条とは無縁とばかりに国民のいのちを守るためとする防衛費のための増税という踏み絵を踏まされようとしています。
 わたしは豊能障害者労働センターの活動に参加することになって、自分のことだけでなく自分のまわりのひとたち、世界のひとたちが同じ時代をどのように生きているのか、何を願い何を夢見て暮らしているのかと、思いを巡らせるようになりました。
 1995年、わたしは豊能障害者労働センターという北大阪の小さな窓から、遅ればせながらようやく世界につながる空をのぞき込んだのでした。
 あれから28年、逝ってしまった6434人のたましいに祈りをささげ、生き残った者の務めとして、どんなにほこりまみれの希望であっても自由であっても大きな力に奪われることのない、誰もが助け合って生きていく世界を未来につなぎたいと思います。