映画「初恋のきた道」 ひたむきな愛のおとぎ話と国家権力

ずいぶん前に録画していた「初恋のきた道」(原題:我的父親母親)を観ました。中国映画の巨匠、チャン・イーモウ監督の1999年公開のこの映画は、同年の「あの子を探して」や2002年の「至福のとき」と合わせ、「幸せ三部作」とも言われています。
わたしは若いころはゴダールやトリュフォーなどフランスのヌーベルバーグや大島渚など、ATG配給の映画などを好んで見ていましたが、40代ごろからアジア映画をよく見に行った時期があり、今は閉じてしまった映画館もありますが町の映画館のいわゆる単館ロードショーに足しげく通いました。
アジア映画と言えば香港映画が人気でしたが、わたしは中国映画と台湾映画が好きで、特に中国映画はほとんど監督の名前も俳優の名前すら知らないのによく見に行ったものでした。もちろん、この映画も公開時に見に行きました。
映画は、中国北部の河北省の小さな村を舞台にした、おとぎ話のような純愛映画です。
爽やかな空の下を広大な草原と麦畑が広がり、小川が流れ、あふれる緑と秋の紅葉と、まるで何枚もの絵画を連射で見るような美しい風景のもと、一人の女性の愛の物語がつづられます。

都会でビジネスマンとして働いているルオ・ユーシェン(スン・ホンレイ)が、父の急死の知らせを受けて数年ぶりに故郷の村へ帰ってくる。母(チャオ・ユエリン)は、古いしきたり通りに葬式をあげたいと願っていた。ユーシェンは部屋に飾られた父母の新婚当時の写真を見ながら、昔聞いた両親のなれそめを思い出していた。
町から教師として赴任してきた20歳のルオ・チャンユー(チョン・ハオ)と、彼に恋い焦がれる18歳の娘チャオ・ディ(チャン・ツィイー)。ディはなんとか自分の想いを彼に伝えようとし、やがて二人の間には恋心が通じ合う。そんなある日、チャンユーは町へ呼び戻されることになり、村の学校から姿を消してしまう。チャンユーが帰ってくるのを、雪の降りしきる冬の道でひたすら待つディ。村と町をつなぐこの一本道は、二人にとって大切な愛の道となった。
葬式が終わり、息子ユーシェンは、父が一生立ち続けた教壇で、こどもたちに父が初めての授業のために書いた教科書で授業をする。ディは、少女の日を思い出すように学校へ向って歩き出すのだった。

1989年、天安門事件による民主化運動の弾圧から10年。この映画が公開された1999年は、中国の市場経済が急成長し世界の工場と呼ばれ始めた頃で、自由経済の発展に伴って人々の考えも大きく変化した時代です。
しかしながら北部の寒村にはまだ経済発展の波が押し寄せておらず、社会の急激な変化に取り残されたままのようです。都会で裕福な暮らしを手にした息子・ユーシェンはおそらく子どものころから変わらない風景を懐かしく思いながらも、もうここには戻れないと思ったのではないでしょうか。それは彼だけではなく、その時代以降中国全体がもう後戻りできない高度経済成長へとつきすすんでいくことになるのでしょう。くしくも彼が乗ってきたクライスラー社製のジープ、チェロキーとともに…。
チャン・イーモウ監督は国共内戦に敗れた国民党の軍人を父に持ち、中国共産党支配の下でイーモウの一家は、最下層の生活を余儀なくされました。文化大革命のときは7年間農村で働き、その経験が彼の農村映画の傑作を生んだといわれています。
辺境の村にも政治の力は確実にひとびとの暮らしの行方に影響を与えるようなり、「初恋のきた道」でも、父親はある日、文化大革命につながる反右派闘争にまきこまれ、突然に町へと連れ去られ、彼を追って高熱を押して走り続ける母親の姿が描かれます。
しかしながら一方で、ひとりの女性のひたむきな思いもまた、大きな政治の力と対置できる「おとぎ話」をわたしたちに語ってくれるのでした。
たしかに、母親の女性像は男に都合のよいものであることは否めないのですが、一方で1957年の中国の辺境の村にやってきた父親が40年以上、村人総出で建設した小学校をたったひとりで支えてきたことに感情移入してしまいます。わたしたち日本の社会でも子どもたちと大人たちのコミュニティーのよりどころとして学校があった同じ時代を通り抜け、学校の統廃合の末にやがて村そのものも消滅していきました。
町から学校の先生が来るという大事件は、この映画ではその村が大きく変化していくことだけでなく、この村を支えてきた大自然のふところに「先生」、すなわち「教育」が溶け込んでくることを意味しているのだと思いました。
先生が来るということで急遽、村総出で学校を作ります。わたしは実は対人恐怖症と吃音になやみ、小学校1年の時は3学期になってやっと学校に行き始めた子どもでしたが、この村の子どもたち、大人たちにとってはそんな悩みを持つ子供はいなかったかもしれません。それどころか、学校がただ単に「先に生まれた」だけの「先生」や「えらい先生」が子どもを教育するところではなく、いかにも青春映画そのままの「若い先生」を囲んで子どもたちが「学びあう」本来の「学校」として、毎日がわくわくする特別の場所だったに違いないのです。
すでに18歳になった少女もまた学ぶこともなく字も読めないけれど、待ちに待った先生が村にやってくることに心ときめかせたとしても、それは当たり前のことだったのでしょう。と同時にその恋心は時には優しく時にはひめやかに時には切なく時にはかなしく彼女のほほを通り過ぎる風とともに、大自然の中でひたむきに解き放たれた愛となっていくのでした。実際、彼女と彼の心のふれあいのすべてはこの村の自然という共有財産の中ではぐくまれていきます。その出会いをつないだ一本の道を彼女彼たちは経済成長の歯車が加速し始めているだろう「町」がなくしかけている大切なものをひとつずつ拾いながら村へと帰って来るのでした。
10年以上も前に見たこの映画を今見直し、棺に入った父親を車で運ぶことをこばみ、棺を担ぎながら大勢のひとたちが歩いて戻るこの道こそ、もしかすると中国全体、いやわたしたち日本全体、世界全体が遠くの辺境の里に捨て去られた大切なものをすでに取り返せないところに来てしまったのではないかと思いました。
この映画は1999年の故郷をあえて白黒で描き、亡き父と母が出会い、夫婦となった1957年をカラーで描いています。当局の検閲で映画に限らずさまざまなジャンルの芸術が自由に表現できない中、チャン・イーモウは体制派と批判される場合もあるのかもしれないけれど、わたしはこの監督がそれらの検閲・弾圧を潜り抜け、ぎりぎりのところで表現してきたことを「初恋のきた道」でも実感しました。
香港への中国の仕打ちやミャンマーの切迫した情勢の中にいて、言葉では語れない理不尽に奪われ続けた無数の魂と屍を累々と積み重ねてもなお、わたしたちは国家がふりかざす正義の下で自由を奪われ、いのちを危険にさらされ、心を固くとざさなければならないのかと思う時、その渦中でそれでも自由をとりかえそうとするたくさんのひとたちの存在を感じながら、この映画のエンドロールをみていました。

「どんなに自由をうばわれても人間には最後にひとつだけ自由がのこる。それは自由になろうとする自由です。」(竹中労)

竹中労語る 天安門事件 - YouTube
この映像は1988年10月11日から1992年10月16日まで放送されたテレビ朝日の深夜帯番組にレギュラー出演していた竹中労の発言記録です。この番組は一週間にあったさまざまな事件や政治的な問題を出席者が自分の意見を言う番組で、東京地域のみの放送だったらしいです。今聴けば竹中労の遺言のように聴こえます。このひとはほんとうに信頼に値するジャーナリストであったとつくづく思いました。

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