進化の果てに生き惑う時代にかつての夢の足音が聴こえる

北海道旅行2 萱野茂二風谷アイヌ資料館、二風谷アイヌ文化博物館、沙流川歴史館
「知里幸恵 銀のしずく記念館」の空気感を心に残したままJR登別から苫小牧まで、ここで日高本線に乗り換えむかわ駅へ、むかわ駅からバスで平取町に入り、びらとり温泉「ゆから」に泊まりました。びらとり温泉「ゆから」は平取町老人福祉センターを2014年に移転改装した町営の旅館で、スタッフの方々がとても親切で気持ちのいい旅館でした。人口の半数がアイヌのひとびとがしめる平取町は北海道日高地方の西端に位置し、豊かな自然とともにアイヌ文化の拠点として広く知られていて、旅館の中にもアイヌの伝統工芸品や農作物も販売していました。
あくる日、二風谷コタンまでタクシーで行きました。二風谷コタンは2019年に整備されたスポットで、萱野茂二風谷アイヌ資料館、平取町立二風谷アイヌ文化博物館、沙流川歴史館などが点在しています。沙流川流域のアイヌのひとたちの歴史、生活文化を広く伝え、未来につなぐ文化交流拠点として充実していて、わたしのようにアイヌの事を全く知らない者にもとても魅力的な場所でした。
最初に訪れた萱野茂二風谷アイヌ資料館は、萱野茂さんが収集したアイヌの民具や鮭の皮で作った衣服、及び交流があった世界各地の民族の生活用具なども収蔵展示されていました。
萱野茂さんと二風谷ダム建設反対運動とアイヌ民族運動
萱野茂(かやの しげる)さんは1926年、北海道沙流郡平取町二風谷に生まれました。1953年、研究者や収集家による民具の流出に心を痛め、アイヌの民具、民話を自ら収集・記録し始めます。50年かけて集めた1121点はのちに重要有形民俗文化財の指定を受けました。アイヌ文化の保存・継承とアイヌ民族運動に生涯をささげたひとです。
長い歴史の中でも特に明治政府は同化政策による北海道旧土人保護法のもと、保護と称して北海道の開拓のためにアイヌの土地を奪い、生活の基盤だった狩猟や採集、漁労を禁じ、教育や公的な場でのアイヌ語の禁止など生活文化のみならずアイヌ民族そのものを否定しました。日本政府のアイヌ民族への弾圧は、強い差別意識を日本人に植え付けました。
1997年にようやく旧土人法が廃止され、アイヌ文化振興法が施行、2007年の国連宣言を受けて、衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がされました。そして2019年にアイヌ施策推進法が施行され、アイヌが先住民であることが法律において初めて認められました。
その契機のひとつが二風谷ダム建設反対運動でした。1973年、沙流川の治水と日高地域への利水を目的に計画されたダム建設でしたが、水没予定地に住むアイヌ民族との軋轢がダム建設差し止め訴訟にまで発展、裁判では国の事業認定が違法であったこと、アイヌ民族が先住民族であることが認められました。その運動の先頭に立ったのが萱野さんたちで、アイヌの権利の回復とアイヌ文化の保護・育成を求め、アイヌ初の国会議員としても活躍しました。1997年に完成した二風谷ダムの稼働が本当に利水、治水に役立っているのかは今も議論が続いています。沙流川は堆積する砂利量が多く、ダムがかえって治水の障壁になるという意見も数多くあります。おそらくダム建設の保障としてこのあたりの整備がされたのだと思われ、何とも言えない複雑な気持ちになりました。ともあれ現在の各施設はアイヌ民族へのリスぺクトを感じさせる真摯な運営がされていて、住民はもとより観光で訪れるわたしたちにとってもすばらしいスポットとなっています。しかしながらアイヌ民族の奪われた権利回復の道はとても遠く感じ、観光に来ただけのわたしには心苦しさが残りました。
萱野茂二風谷アイヌ資料館には大小さまざまな民具のひとつひとつが放つ熱量とともに萱野茂さんとれい子さんご夫婦の、決して安穏なものではなかっただろう生活の匂いがぎっしり詰まっていました。アイヌの豊かな歴史と生活文化、世界観を後世に残したいと願う萱野さんの執念が伝わってきて、それをしっかりと受け止めなければと思いました。
厚かましくも萱野茂二風谷アイヌ資料館に重いリュックを預け、次に平取町立二風谷アイヌ文化博物館に行きました。1992年に開館したこの博物館は萱野茂さんが寄贈した資料が基礎になっているということです。公的な施設によくある学問的、専門的な展示になりがちなところ、来館者にとてもフレンドリーで、古い起源をたどり、さまざまな時代の移り変わりを越えて形作られたアイヌの伝統文化を多様に学び、楽しめるユニークな公立施設でした。これらの施設を取り巻く二風谷コタンには復元された多くのチセ(家)が点在していて、かつてあった二風谷集落の名残を感じさせてくれました。
いくつもの時代に塗り替えられても、大地は風を記憶し、未来を用意する
そのまま歩くと問題の二風谷ダムと二風谷湖のそばに沙流川歴史館がありました。沙流川流域、特に平取町領域の「カンカン2遺跡」やチャシ(砦)、「二風谷遺跡」をはじめとするダム建設時に発掘された縄文時代や続縄文時代、擦文時代、江戸時代以前のアイヌ文化の時代の出土品、土器のほか金属器などが展示されています。また、明治以降の平取町の歴史年表や産業、教育などの展示もあり、実質的に町の郷土館の役割も担っているようです。屋上は展望台になっており、ゆったり流れる沙流川を見ることができました。
そのあと、ダムの近くまで歩いていくと、そのあたりは北海道大学の敷地になっていて、少し先に旧マーロン邸につきました。英国人考古学・人類学者のニール・ゴードン・マンロー博士は、アイヌの生活風俗研究のために二風谷に移住し、研究のかたわら医者としての奉仕活動に生涯を捧げた人です。1942年の永眠後、住宅兼病院であったここは記念館として保存され、現在は北海道大学へ寄贈され、北方文化の研究に活用されています。ここから二風谷コタンの入口に戻る並木道はとてもすてきでした。
最後に萱野茂二風谷アイヌ資料館に戻る途中で「ウレシパ(平取町アイヌ工芸伝承館)に入りました。この建物はアイヌの伝承工芸を継承する職人の養成や、見学者の体験もできるようになっていました。もう閉店時間になっていましたが、ここのスタッフの方がとても親切で、丁寧にアイヌ工芸の伝承活動について話してくださり、記念写真もとっていただきました。
一日過ごした二風谷コタンはたしかにテーマパークのようでもあり、自然と闘い、自然を敬い、狩猟と採集、漁労と海を渡る交易を生業にしたアイヌ民族のかつての姿とはまったく違う、変わり果てた風景なのでしょうが、それでも昔の面影を残しているように思いました。それはおそらく、二風谷のひとたちがこの地を愛し、先人の苦闘の中で守り、つないできたアイヌの誇りと文化を後世に残そうとする気概によるのでしょう。
今回の旅と重なって知里幸恵の「アイヌ神謡集」と菅野茂のウエペケㇾ集(昔話)「アイヌと神々の物語」、石村博子の「ピㇼカチッポ(美しい鳥)」を読みました。動植物のみならずすべての自然と生活がカムイ(神)との対話で語られ、自然の循環の中で生き死ぬ死生観、狩猟社会と氏族社会、贈与と交換、土地の所有権への執着のなさ、個人的には宮澤賢治とのつながりなど、アイヌ民族の歴史がとても身近なものに感じました。
愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずるために用いた多くの言語、言い回し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢無く、滅びゆく弱きものと共に消え失せてしまうのでしょうか、おおそれはあまりにも痛ましい名残惜しい事で御座います。(知里幸恵「アイヌ神謡集」序文)
その日の夕方、二風谷を後にして日高に向かうバスに乗りました。クマがいかにも出てきそうな山のバス道を約1時間半、日高総合支所のすぐそばの一棟貸の旅館になっているきれいな家に泊まりました。


