時速300キロの青春 イオリさん追悼

2003年7月 KOJIKANATURUライブ 打ち上げ 市民酒場「えんだいや」にて

ほんとうにいいやつだった。

 豊能障害者労働センターのスタッフだったイオリさんが突然になくなりました。
 ほんとうにびっくりしました。今でもまだ、信じられません。
 41歳になるかならないかの若さで突然去ってしまったイオリさんとの出会いは、1999年ごろでしょうか、彼がまだ高校生で、障害者の介護派遣事業所にアルバイトとして現れ、それと並行してわたしたちが共同経営していた市民酒場「えんだいや」のアルバイトもしてくれるようになったのがきっかけでした。
 話に聞くとこの年、被災障害者支援「ゆめ風基金」主催で筑紫哲也さんの講演会を開いた時、入場整理の一番前で並んで参加し、その時にわたしたちの活動に関心をもったと言います。
 もちろん、会場整理をしていたわたしは1000人のお客さんを安全に誘導するのに必死で、その時は全然気づかなかったのですが、あとから聞いて高校生が来てくれたことがとてもうれしく、意気投合したのでした。
 人懐っこく、気配りが抜群の彼はおとなたちにもこどもたちにも好かれる、ほんとうにいいやつでした。そのころちょうどアマチュアのストリートミュージシャンが流行っていて、かれも親友とコンビを組み、大阪の石橋駅や箕面駅で演奏し、歌を歌っていたということでしたが、実際のところそんなに上手ではなかったのですが、子どもから大人になっていく青春の危うさと瑞々しさを兼ね備え、その美形も相まって女性の心をとらえて離さない魅力がありました。
 音楽にかぎらず、その天性のサービス精神で彼は一気に世代を越えて人気者になり、とくにサポートを利用する障害者にとても愛されました。
 給料は考えられないほど少ないけれど、高校を卒業したら労働センターで働かないかと声を掛けました。実際、労働センターは男性の介護者が足らなくて、事業をしながら介護の担い手となってくれるひとを探し続けていましたので、高校を出たばかりの彼に来てもらえたことはとてもうれしいことでした。
 わたしは2003年の暮れに箕面を離れましたので、それからは彼と個人的な関係を得ることは少なかったのですが、労働センターのリサイクル事業をになうマネジャーの役割を果たしていて、最初に出会った頃の少し危なっかしいところがなくなり、たくましなったなと感心していた今日この頃でした。
 今でも到底受け入れられない彼の突然死という理不尽な現実を突きつけられ、「何があったの」と次から次へと「なぜ、なぜ、なぜ」があふれてきますが、40歳過ぎという若さが仇となり、仕事にかまけて自分の身体を愛おしくケアすることを怠っていたのかもしれません。
 年のかけ離れたわたしと彼が人生の一時期、毎日というほど市民酒場「えんだいや」で語りあった遠い昔を思い出しては、最近ほとんど出会うこともなくお酒を飲んで語り合うことがなかったことを悔やんでいます。ほんとうにいいやつでした。
 そんな遠い思い出と後悔で心をいっぱいにして、はじめて出会ったころに書きとめた詩と短い文を追悼の言葉とします。

青春の海岸線に取り残された愛おしい夢を拾い集め、ひとはいつからおとなになるのだろう。

たとえば青春は
暗い路地を走り抜けた後に広がる青空
廊下に出るその一瞬に部屋に残した風
飛び乗った列車の窓から行方不明になった
もうひとりのぼく
長い時間を貯金した忘れ物の傘のように
たとえばそれがぼくの青春
長い非常階段の踊り場で
行方不明のぼくたちが手をふっている
洗いざらしのTシャツを着て
街に出て映画でも見に行こう

まばたきをするだけで世界は変わる

その日は市民酒場「えんだいや」でアルバイトをしているエミちゃんの19才の誕生日だった。夜もふけてお客さんも帰り、集まってきたアルバイト仲間のノンちゃん、イオリくんと、シズコさんとぼくで、ささやかなお祝い会がはじまった。そこにふらっと現れたタクシー運転手で、調理場の助っ人のウエダさん。19才の3人と、50才をこえた3人の奇妙な会話がはじまる。
 若い3人の顔を見直すと、いつのまにか大人の顔だ。若さはたしかに時を追い越していくのだ。時速300キロで走り抜けた後に取り残されたものだけが、見果てぬ夢と思い出になる。

労働センター慰安旅行