電気・水道・ガス・福祉!

たった一粒の涙をむだにしない政治を求めてたたかった入部香代子さん
彼女はぽつぽつと話し始めました。
誰もが安心して暮らせる町づくりと言いながら、わたしは余震におびえ、恐怖と不安で夜も眠られへん。こんな時なんの役にも立たへんと、自分の無力さをつくづく思い知らされたんや。
せやけどな、わたしの議員活動もサポートしてくれる友だちが、「何にもできないと落ち込んでる場合やないで、とにかく避難所に見舞いに行こうや」と言って、わたしを連れ出してくれたんや。おずおずと避難所に入ったら、「入部さんやないか、よう来てくれたな」と声をかけてくれたんよ。わたしは率直に「すぐには役に立つことはでけへんけど」と口ごもると…、「何いうてんねん、今のわたしたちに何かを助けてくれる人もありがたいけど、わたしたちと同じ怖さを、いや、わたしたちも想像できないそれ以上の怖さを経験したあんたと、こわかったなぁ、と慰めあえることがうれしいねん。それはあんたとしかでけへんねん」。
1995年、阪神淡路大震災から1か月以上すぎていたでしょうか。その年の4月の2期目となる豊中市議会議員選挙のために集まった会議で、入部香代子さんはこんな話をしてくれたのでした。
その5年前、1990年の夏ごろだったと思います。大阪府箕面市の豊能障害者労働センターに在職していたわたしは、代表の河野秀忠さんから、車いすを利用する入部香代子さんが豊中市議会議員選挙に初挑戦するので、彼女の選挙をみんなでやろうと誘われました。
入部さんは関西のみならず全国の障害者運動の先駆者で、長らく施設に入っていた入部さんを連れ出したのが若き日の河野さんで、それからの長い年月、わたしが全く知らないたたかいと数々の事件を共に通り抜けてきた盟友でした。
わたしは桑名正博さんのコンサートではじめて1000人会場をいっぱいにした達成感に浸っていた時で、河野さんのかなりしつこい勧誘は「そんなことで自己陶酔してる場合じゃないぞ」と言われているように思いました。
数を求める選挙で、少数者の願いをすべてのひとの幸せへとつなげたSさんのプロデュース
ある日、豊中市上野坂あたりで手動の車いすに乗り、介護者ととぼとぼと歩く入部香代子さんの姿を見かけました。ポスターやチラシなどを車いすの後かごに乗せて、おそらくどこかの家をたずねていくところだったと思います。豊中市は広いですから、こんなことしていては当然他の立候補予定者の動きには追い付けるはずもないでしょう。
わたしはその頃でも政治のことや世の中のことにはあまり関心がなく、障害者の暮らしを成り立たせるためのお金をかせぐことに必死でした。そんなわたしでも、入部さんが選挙に出ようと決意し、河野さんがあれだけ何度もわたしを誘ってくれた理由がわかったのでした。その時の入部さんの姿を見て涙がこぼれるのをとめることができませんでした。
そんなわけで、わたしは入部香代子さんの選挙に参加させてもらうことになりました。
選挙の時によく政策か人柄かと言われますが、その頃以降、濃淡はありますが縁あって選挙に関わる時、わたしはよくも悪くも義理と人情と心情と愛の「どぶ板選挙」を信じています。
もちろん、政策が一番なのは当たり前のことですが、ひとりの人間がなにがなんでも伝えたい、想いを届けたいと必死に願うものがあってこそ、あんなに恥ずかしく、はた迷惑な選挙活動をすることを自分自身に許せるのだと思うのです。入部さんの場合、長い間の障害者運動から実感する「共に学び、共に生きる」ことが権利であるだけでなく、「誰もが当たり前に生きていける街と社会をつくる」義務を障害者もまた持たなければならないという覚悟がありました。
それは多数におもねることではなく、たった一人の悲しみ、涙を受け止めることで、今流行りのタイパやコスパとは真逆の非効率的な選挙活動でした。選挙活動そのものがそのまま彼女の生き方をあらわしていて、選挙に関わったわたしたちは「このひとほど一人ひとりに話しかけて票を拾い上げる候補者はいない」と感激しました。彼女の街頭演説を聞き、とても困っている人たちが彼女のまわりに集まって来ました。
入部さんの選挙活動は、障害をもつ当事者という少数者の願いと憤りと夢が、同じ時代を生きるすべてのひとの幸せにつながっていることと、その道筋をつくるのが政治なのだと教えてくれたSさん、突出した時代感覚を持ち、市民感情とマイノリティのささやかな夢をつなぐ選挙活動を支えてくれたSさんという名プロデューサーのもと、見事に当選を果たしました。
義理と人情と心情と愛のどぶ板選挙は、SNSにも排除される無数の「誰か助けて!」の声を受け止める
全国各地で選挙が多かった今年、よくも悪くもSNSが地中から溢れ出て、これまでの選挙の景色も政治の景色も変えてしまいました。その道はもう後戻りしないと思います。これからはSNSをふくむ若い世代同志の議論によって世界も日本もつくりかえられていくと思います。
その時、厚かましいことは承知で、わたしたち老世代が残念ながら解決できてなかったさまざまな問題を彼女彼ら同士が対話を重ね、よりよい方向につないでくれないかと切実に願っています。
いまだ醒めない経済成長への信仰のもとで、明日もその先もよくなるはずもないと思う人々が転職サイトを見つめ、少しでもお金を得るために短時間のワークシェアを求めたり、知らない間に闇バイトに迷い込んでしまったりと、若い人たちにやさしく安心できる社会は遠く、その一方でわたしもふくめてどの世代も自分の身の回りのことで精一杯で、刹那的で実はとても深刻な暮らしをしのいでいます。あきらめのため息が社会を埋め尽くす今、民主主義もまた妬みの民主主義がまん延し、しばらくはその暴力はおさまりそうにありません。それもまた、わたしたちの民主主義がくぐりぬけなければならない現実だと思います。
しかしながら、その現実のはるか彼方で声を押し殺し、息を潜めながら、「誰か助けて!」と夜明けの空を見つめているひとたちもまた、たしかにいると思います。その小さな声は私たちの街にも、この国にも、世界にも点在し、「共に生き、助け合う友」をさがし続けているのだと思うのです。コロナ禍以降、中小・零細企業や個人商店などの倒産が増え、ここ数年少なくなったとはいえ、自ら命を絶ってしまうひとびとがいること、その中で子どもの自死数が増えていること、闇バイトの実際が犯罪のシェアで行われるために事の重大さがわかりにくくなっていること、人手不足が深刻になっているのにリストラで職を失うひとが多くいる事、気候危機がすでにわたしたちの日常になる一方で世界が壊れようしているのかもしれないこと、などなど…。すでに、他人事ではなく迫ってくる暮らしの危機のただ中にいて、いまほど政治を必要とする時代はないのかもしれません。
1995年、この時の選挙で、箕面でも豊中でも、また全国の障害者運動の伴走者だった河野秀忠さんは「電気・水道・ガス・福祉!」という素晴らしいキャッチフレーズをつくりました。未曽有の災害を経験し、生き延びたわたしたちだからこそ生まれた切実な言葉でした。
入部香代子さんは、1991年豊中市議会議員初当選し、その後4期16年間の議員活動を経て2007年に引退、2013年に急逝されました。