吉田馨さんと桜の庄兵衛さんとブラームスと

7月19日開催「チャリティーコンサート in みのお2025」に想う

ひとは愛しあえないの?
ひとはわかりあえないの?
このほしはいつまで涙と血が
ながれつづけるの?
21せいきのしつもん!

 今年も開催される「みのおチャリティーコンサート」はドイツで活動する箕面市出身のヴィオラ奏者・吉田馨さんの呼びかけから始まりました。20年の歴史を刻んできたこのコンサートは高齢者をサポートする活動を出自としていましたが、東日本大震災を機に困難な現実を生きる自然災害の被災者への支援へとステージを広げました。
 そして世界各地の紛争のさ中で家をなくし、破壊された町や村で夜空を見上げる子どもたちに平和な世界を届けたいと願う、祈りのコンサートになったのではないかとわたしは思います。
 そう思うのも大きな災害や紛争による犠牲はその当事者にとどまらず、同時代を生きる誰もが否応なく背負うことを迫られる情報の時代をわたしたちは生きていて、すべての表現行為に反映されていると思うからです。特にヨーロッパのクラシック音楽は殺戮の道具を捨てて楽器を持ち、音楽という地下道を潜り抜けたひとびとの歴史を持っています。
 長い間、クラシック音楽とは無縁だったわたしにそのことを教えてくれたのは吉田馨さんでした。

ブラームスはお好き?

 吉田馨さんとの出会いは2015年の夏でした。
 わたしの最後の仕事になった被災障害者支援「ゆめ風基金」の20周年記念コンサートを手伝ってくれた後、豊中市岡町の「桜の庄兵衛」さんで開く自身のコンサートに参加し、その感想を「桜の庄兵衛」さんの便りに寄稿してほしいと依頼されました。「とんでもない、わたしは今までまったくクラシック音楽を聴いたことがない」と断ったのですが、吉田馨さんも「桜の庄兵衛」さんも「その方がいいんです。今までクラシック音楽に触れたことがない人の感想を載せたいのです」と言われ、その甘い誘いに乗り引き受けてしまったのでした。
 初めての経験だったクラシック音楽のコンサートは衝撃的でした。今まで縁がなかっただけでなく、「歌は世につれ世は歌につれ」という言葉そのままに、時代の空気と庶民の暮らしにぴったりくっつき、たかだか3分程度で人生を語ってくれる歌謡曲しか知らなかったわたしにはクラシック音楽は敷居が高く、聴かず嫌いで歳を重ねてきたからでした。
 その頃の桜の庄兵衛さんは開放的な雰囲気のギャラリーになっていて、まるで路上で演奏しているような感じだったのも、わたしのかたくなな偏見や心の壁を壊してくれたのかもしれません。
 この日の演奏はヴィオラの吉田馨さんとピアノの塩見亮さんのデュエットで、わたしはその時にはじめてブラームスの音楽を聴きました。若い頃にフランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き?」という小説と映画化された「さよならをもう一度」で名前を知っていた程度で、クラシック音楽に疎いとは言えほんとうに恥ずかしい限りです。こうしてあまりに遅すぎたクラシック音楽の体験はかの有名なブラームスからはじまったのでした。
 塩見亮さんのピアノはそれ以後様々なピアニストの演奏を聴いた中でも派手なパフォーマンスもなく、どちらかといえば地味な演奏でありながら不思議なみずみずしさとやさしさがこぼれ落ちる音色とリズム感がとても心地よかったことを記憶しています。
 そして、吉田馨さんのヴィオラは、叶わぬ何か、それは恋や愛や願いのような個人の心にまつわるものだけではない、時代の空気や世界の望みをたどるようで、なんとも言えない切ない旋律がわたしの心にとどまってはハラリと落ちていくようでした。それもそのはず、たしかその楽曲はブラームスの晩年の楽曲で、生きる情熱と切ない希望と音楽への限りない愛情がいっぱいつまっているような気がします。この曲に限らず、ブラームスの楽曲を聴くとどれも美しい旋律の中に、取り返しのつかない物や出来事の切なすぎる記憶がよみがえり涙がこみ上げてくるのです。
 さて、今その時に書いた感想文を読み直すと、初めて聴いたクラシック音楽の演奏にどぎまぎし、うろたえながら必死で何かを感じとろうとしているわたしの心が透けて見えて恥ずかしくなります。もっともそれから主に「桜の庄兵衛」さんやテレビ番組で数少ないながらもクラシック音楽を聴いてきました。もしかすると今はポップスよりも聴く機会が増えた気もします。しかしながら、今もクラシックの知識はほとんどないまま記憶に残しておこうとブログ記事を書いています。

世界がすべて沈黙する前に

クラシック音楽の奥の深さに衝撃を受けたのもまた、「桜の庄兵衛」さんで聴いたドミトリー フェイギンさんのチェロ、新見フェイギン 浩子さんのピアノのデュオコンサートでした。この年、ロシアのウクライナ侵攻が始まり、ロシアとウクライナのどちらにもルーツを持つドミトリー フェイギンさんの言葉では伝わらない憤りや悲しみに包まれたチェロの音が会場にひびきました。たしかに音楽には力があり、人の心をいやすものなのでしょうが、それよりも幾百年もの間、音楽もまた傷つき、途方に暮れ嘆き悲しみ、破壊されたがれきの下の無数の死者の悲鳴であり続けてきたのだと知りました。そして、クラシック音楽がこれほど長い年月をくぐりぬけ、国家の愚かな暴力によって住む場所を追われ、家族や友人や恋人と生き別れ死に別れ、漂ってきた無数の人々の歴史を記憶してきたからこそ、いまも世界中でその記憶をたどり楽器を抱く若い演奏者を育てているのだと思いました。
 この文章を書いている今この時、ロシアの侵攻はやむこともなく、新たにイスラエルがパレスチナの人々をなんのためらいもなく6万人のいのちを奪い続け、アメリカもまたイスラエルに加担しイランを空爆しました。
わたしたち人間はいつまでこんなことをくりかえすのでしょう。銃をかまえる兵士たち、爆弾を落とそうする兵士たち、長い夜のカーテンに身をかくす市民たち、彼女たち彼たちは今どんな音楽を聴いているのでしょう、どんな歌を歌っているのでしょう。

 「国家がその権力において個人の<生>を奪いつづけるかぎり、<音楽>が真に響くことはない。私たちは<世界>がすべて沈黙してしまう夜を、いかにしても避けなければならない。」(武満 徹)