微笑みのファシズムからの救済とシェルター・唐組の紅テント

わたしが唐十郎を知ったのは1960年代にすでに世間で名前を知られるようになった少し後でのことで、おそらく「美術手帳」か「現代詩手帳」で状況劇場の記事を見たからだと思います。それから後、大島渚の「新宿泥棒日記」の劇中劇で見た「由比正雪」が衝撃的でした。
そして1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演し、わたしははじめて紅テントの中に入ったのでした。麿赤児や四谷シモンはすでに退団し、李礼仙、大久保鷹、不破万作とともに、根津甚八と小林薫が人気を集めていました。たしか大阪に来たのは初めで、天王寺野外音楽堂は今はなく、それからずっと後に天王寺公園から猥雑でわくわくしたすべてが排除されてしまいました。
最近は地方自治体の公園内にもカフェがつくられることが多くなり、たしかに地域コミュニティーの活性化のための行政サービスとして住民に喜ばれるところもあるのでしょう。
しかしながら一方で、ミニアミューズメント施設やカフェなど、どこの町に行っても同じような公園になってしまう危険もまたあるとわたしは思います。ニュースやドラマまでもバラエティー化されてしまったテレビ番組をはじめ、すべてが均一で当たり障りのない「微笑みのファシズム」がじわりじわりと小さな叫びやつぶやきをかき消してしまう、そんな鬱屈した空気に包まれる今、公園もまた見通しの悪さや薄暗さ、夜には少し怖い場所になってしまうことのない、「安心・安全でおしゃれな空間」を要求されているのでしょう。
天王寺公園がクールなアミューズメントパークに変わるまでは、昼間から屋台の飲み屋さんでステージ衣装なるものを身にまとい、演歌を歌っていたおじさん、おばさんたちがいました。決してそれがいいとは思えませんでしたが、今ふりかえるととても懐かしく思うのです。
もちろん、1974年当時の天王寺公園はまさに大阪を象徴するような猥雑さに満ち溢れていました。とくに野外音楽堂の付近はうっそうとしていて、夜になるとマッチがついている間だけスカートの中を見せる「マッチ売りの少女」が出没していて、その日も「兄ちゃんどうや?」と誘われたことを思い出します。
当時は特に根津甚八ファンの若い女性が殺到していて、テントの横壁の近くで前かがみにならなければならない立ち見の状態でした。根津甚八がテントのうしろから花道に登場すると「甚八さん!」と黄色い声がキャーキャー飛び交い、わたしも苦笑しながらその熱気にあおられ、現実からあっという間に異世界に連れ去られた感じでした。
わたしは子どものときに、たった一度ですが旧国鉄で二駅はなれた吹田駅そばの商店街の「角座」(大阪の有名な角座のパクリ)で、「瞼の母」だったか「国定忠治」だったか、大衆演劇を見に行ったことがありました。シングルマザーで朝早くから深夜まで大衆食堂を切り盛りしながらわたしと兄を育ててくれた母が、わたしたちのために用意してくれた楽しい一夜でした。
日本中がそうであったように、子ども心に極貧で母と兄とわたしが身を寄り添って一日一日を食いつないでいたあの頃、何にも楽しいことがなく夢を見ることもなかったわたしにとって、その夜のことは忘れられません。黒い土と、電柱に付録のようにぶらさがり、カランコロンと頼りない明日を照らすだけの街灯…。どもりで学校にもまともにいかず、「いいことなんて何一つやって来ない」と暗い顔をしていたわたしにとって、芝居の中身はまだよくわからないものの舞台の光景は今まで見たこともない世界でした。
きらきらまばゆい舞台はまわりの暗さ(それは時代そのものの暗さだったのかも知れないけれど)ににじんでいて、決してくっきりした空間を作ってはいません。それなのにどこかそのぼんやりとした光の向こうで、私をどこかに連れて行ってくれる希望が待っている気がしました。わたしは芝居が終わってもその場を立とうとせず、母から「いっぺん見たらもういいやろ」とむりやり引っ張られて芝居小屋を出ました。
初めて唐十郎の芝居を観た時、いくつもの物語が錯綜しては引きはがされ、またひとつにつながっていく縦横無尽の展開と饒舌を越えた早口セリフの挑発的な熱量と圧倒的な難解さに取り残されるばかりでしたが、わたしはテントの中を別世界にかえてしまう灯りに、子どものときに見た芝居を思い出し、とても懐かしく思いました。
その時以来、状況劇場から唐組になってずいぶん時が経ちましたが、毎年やってくる唐組の芝居をほとんど観てきました。紅テントの中にいると、わたしの心と体からもうひとりの自分が現れ、そのもうひとりの自分が芝居の中に溶け込んでいくような不思議な感覚になります。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのです。
そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の街の夜へと消えていこうとする時、わたしはテント小屋の中にもう一人の自分を置き忘れたまま、現実の街へと帰っていくのでした。そして、ひるがえる紅テントが去った後の物語の「その後」は巷の夜に放り出されたわたしの心のひだにべっとりとへばりついたままで、その物語の中で違う人生を生きるもう一人の自分と再会するために、わたしはまた紅テントの中へと迷い込むのでした。
唐組は風のごとくその痕跡を消しながら街のいたるところに赤テントという異空のシェルターをつくってきました。目の前で繰り広げられる物語の展開の裏側に日本の近・現代史の暗闇が広がり、芝居の中で語られる事件や戦争や災禍がその暗闇の歴史のるつぼで再構成され、テント小屋の密室空間にせり上がってきます。
ひるがえるマントにロマンティズムを忍ばせて唐十郎がのぞかせてくれるものは、新聞の三面記事に仕組まれた悪意に満ちた世界に抗う少年少女の純愛で、その純愛は国家もわたしたちも忘れてしまいたい日本の歴史の暗闇に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのです。途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史を呼び覚ますために…。わたしは唐十郎の芝居で、学校の教科書では学べなかった歴史を学んだのでした。

今回の芝居は、いつも以上にせつなくかなしく寂しく感じました。それはコロナの影響で客席数をうんと減らさなければならなかったせいなのか、それとも演出を引き継ぎけん引する久保井研の変化なのかははっきりわかりませんが、わたしは久保井研の演出のギアが一段上がったような気がします。唐十郎の演劇空間を引き継ぎながらも、決して上塗りではなく、唐十郎へのオマージュを独自の演出であえて熱量を抑えて舞台化したように感じました。かつて、唐十郎が舞台に出られなくなった時にも感じたある種の覚悟を感じた芝居でした。そして、個人的には稲荷卓夫が戻ってきてくれたことがとてもうれしいことでした。

唐十郎「ジョン・シルバー」
作詞・唐十郎 作曲・小室等

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