「唐版 滝の白糸」

劇場に入ると幕はなく、薄暗い舞台には廃屋のような2階建ての長屋が建っていて、その前の路上には懐かしい看板やがらくたが積まれています。車の音か何か、遠くの街のざわめきがかすかに聞こえ、いつのまにか劇場の中は霧が立ち込めています。開始5分前のアナウンスがあり、車のエンジン音がひときわ大きくひびき、しばらくすると客電がついたまま窪田正孝演じる少年アリダが後方の扉から舞台中央へと歩いてきます。そして下手側の扉から、平幹二郎演じる銀メガネが現れ、アリダをつける。アリダが舞台に上がると客電が消え、舞台が明るくなる。アリダが舞台奥の長屋の前でうずくまり、銀メガネが後ろから覗き込む。「どうして僕をつけるのですか」と、アリダが振り返って叫ぶ…。観客であるわたしは演劇空間に誘い込まれ、どこか不吉でそれでいてわくわくする運命をアリダとともにたどることになるだろうと予感する。こんな風に、「唐版 滝の白糸」は始まりました。

銀メガネは十年前に幼いアリダを誘拐して、10年の刑務所暮らしをしたと言います。そして今日は5月5日、端午の節句。アリダの兄の一周忌の日です。流しに水をため、手首を切って心中をはかった兄の命日に、心中の生き残りの女お甲に兄の借金10万円を返しに来たアリダでしたが、話しているうち言葉巧みな銀メガネにその金を渡してしまいます。運送屋の2人の男(井出らっきょとつまみ枝豆)が大きな洋タンスを担いで長屋の前に運び込み、セリフの掛け合いで笑わせて去っていき、次にアリダの兄と商売をするはずだったという羊水屋(鳥山昌克)が登場しますが、さすが唐組の役者で水を得た魚のようなセリフ回しで会場を沸かせました。一瞬、舞台が暗くなり、洋タンスにスポットライトが当たると、大空祐飛演じるお甲が立っています。ここまでのかなりの時間を長セリフの掛け合いで引っ張った分、大空祐飛の立ち姿が異様に美しく、さすが宝塚だと思いました。水商売女風の厚化粧と真っ赤なワンピースが目に焼き付きます。生き残ったお甲が移り住んだ長屋には、お甲と赤ん坊を支えてくれるミゼットプロレスの連中が住んでいます。 彼らは明日から2ヶ月の巡業予定だが旅費が足りず、その金を工面するための無心だったと言い、お甲は時に優しく時に厳しく、哀れを装い、誘惑するようにお金をねだります。4人の小人症のひとたちが舞台に現れ、お甲に金の工面ができたか聞き、無理なら良いのだと慰めて退場します。2回目に登場した時だったか、下手に並び口上を述べる4人に後方から夕日が差し込んで長い影をつくり、「影に映った自分はこんなに大きいねぇ~」、「影を踏んじゃいけないよぉ~」というシーンは胸に迫るものがありました。兄さんの一周忌のこの日、滝の白糸を見せるからお金を返してと、水芸の準備をするのですが肝心のホースから水が出て来ない。水道の栓を開けてとアリダに頼んでいたのと叫びながら長屋に駆け込んでいくお甲。暗転後の舞台。薄闇の中に菖蒲(アヤメ)がずらりと並び、白糸太夫の衣装に身を包んだお甲が水芸を始めます。そこに長屋を取り壊そうとする工事人夫が多数現れ、射撃音と音楽が大音響で流れる中、アリダが必死に抵抗します。工事人夫がホースを切断したため水芸を中断されたお甲は長屋の2階に駆け上り、身を乗り出して叫びます。「できます、踊ります。この滝の白糸太夫は!万事はこの一時から!それでは皆さま、手首の蛇口を外しましょう」。水の代わりにお甲の手首から血が吹き出し、アリダに降りかかります。流し台に乗ったお甲がクレーンに乗って宙を舞い、アリダは全身を真っな血で染まりながら流し台を追いかけて舞台を飛び回るのでした。やがて暗い舞台に一人残されたアリダ少年は「菖蒲はどこだ!この夜をあやして守る、ぼくらのあやめは!」 と天を仰ぐと、菖蒲の葉を唇にあてておもいきり吹き鳴らす…。ざっとストーリーを書いてみても仕方がないところもあり、ここからはわたしの感じたことを書くことで、すこしでもこの芝居のすばらしさを伝えられたらいいなと思います。

この物語は多くの方が言っているように、少年アリダが生まれ直すというか、兄や母の死を受け入れ、大人として自立していく物語であると思います。芝居が始まって30分はあったでしょうか、銀メガネとの絡みでよくも悪くも俗世間の人間らしさというか、生きる術を獲得します。そしてお甲が登場すると、最初は兄をたぶらかして心中を誘い、自分だけが生き残り、子どものミルク代ではなくミゼットプロレスの地方興行の旅費を工面するためにお金を要求するお甲に反発するのですが、次第に彼らのために必死にお金をつくりだそうとしているお甲の気持ちに惹かれるようになり、お甲が水芸で銀メガネからお金を取り返そうと必死になるのを手伝うようになります。それは兄の一周忌に水芸をすること、それ自体がお甲の兄への愛でもあることを知ったからではないかと思いました。その血を浴びることでアリダは子どもから大人へ、少年から青年へと脱皮したのではないでしょうか。芝居の最初から最後まで出ずっぱりのアリダでしたが、最初の幼かった彼が最後には孤独に耐えて生きる決意を持ち、悲しみをすべて吐き出そうと菖蒲の笛を強く吹く大人になっていました。お甲はどうでしょうか。心中で生き残った人間が世間からどういわれるかはわかりきっていますし、ましてや女の場合はひどいバッシングを受けるにちがいありません。それらを払いのけながら生きるお甲のしたたかさや潔さの中には、とてもこわれやすいけれども人を愛する純情な心が隠れています。アリダがお甲に気持ちを寄せるきっかけは、彼女の小人症のひとたちへのピュアな思いとともに、兄の指が6本あったことを共有できたことだと思うのですが、彼女の悪態やはすっぱな外見の奥に、先に逝ってしまったアリダの兄への少女のような純愛を感じずにはいられません。そう思うと唐十郎の芝居にはいつも、兄と妹、姉と弟など、血縁でありながらすでに他人でもある主人公たちによって芝居の前に純粋培養されていた純情な心が、芝居の中の猥雑で暴力的にも思える狂言回しのような「悪者」に揉まれ、鍛えられ、導かれ、芝居が終わった街の雑踏から次の荒野へと去っていく物語が多いと気づきます。「唐版 滝の白糸」では、自分の死と引き換えに水芸をつづけるお甲の血を全身に浴びながら、アリダもわたしたちも、死んだ兄とお甲が一年かかって準備してもう一度心中する姿を観ていたのかもしれません。そして、銀メガネ。彼は結局のところは登場人物ではなく、冷徹にこの芝居を見つめ、お甲の二度目の心中とアリダの血塗られた誕生と自立をそそそのかし、仕組んでいった作者そのものだったように思います。ストーリーを追って書いてみると、ここですでに紙面を越えています。あと少しお付き合いくださって、次回は役者について感じたことと、この芝居と泉鏡花の原作との通底路を探ってみたいと思います。

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