唐組「桃太郎の母」

唐組の「桃太郎の母」を観ました。毎年春、大阪から始まる唐組の芝居を観るのがわたしの楽しみのひとつで、1988年に状況劇場解散後、唐組が結成された最初の頃から観てきました。
実をいうと唐組の芝居は毎回ほぼ理解不能で、テント小屋に充満する言葉と汗とつばとひやりとした空気と黄色い光と暗闇におぼれそうになりながら、あっという間に過ぎ去ってしまい、そのあらすじもはっきりと思い出せません。
テント小屋は母親の胎内のようですが、暖かかくて居心地の良い所ではなく、芝居が始まる前のたどりたどればどこまで行くのかわからない時の鉄路を疾走して今着いたばかりの場所、かつてどこにでもあったはずの忘れられた場所、芝居が始まればあっという間にわたしを記憶の中にかくれていたもうひとつの町に連れもどす、なつかしくもおそろしい暗闇でもあります。
そこでくりひろげられるいくつもの物語はあっちにもこっちにも飛び散るのですが、そんな喧噪の真っただ中で時には姉と弟、兄と妹、時には幼馴染など、過去からの深いつながりをひきずり、お互いに思いやる純情な心の震えが芝居の空間からあふれ出る時、テント小屋の冷たい密室が切なくもあたたかいセンチメンタルな風に包まれます。
芝居の最後、密室だったテント小屋の舞台が解放されると、現実の町のあたたかい暗闇にすべての物語が飲み込まれ、観客であるわたしもまた母親の胎内から生まれてきたばかりの赤子のように、夜のとばりに放り出されるのでした。
今回の「桃太郎の母」は1993年に上演された芝居の再演で、小説にもなり、また林海象の映画「海ほうずき」にもなった物語ですが、2幕の芝居は唐組らしくとてもテンポよく疾走してしまうので、やはりほとんどわかりませんでした。しかしながら、先ほども書いた純情な心のふるえがべったりとわたしの心の壁にへばりついたまま落ちないので、わたしなりに感じたことを書いてみようと思います。

――悶(ほん)……「さわぐ」という意味を持つ粉。飲むと何年も姿を消す、そしていったん帰ると聞いたこともない体験をほのめかすという。別名、桃太郎の母――
1990年4月7日、女子大生・真理子、台南、高雄にて消息を断つ。行方切れて5日後、母元に一通の手紙あり。「待ってて、母さん、私の息を届けます」
それから3年――。
そのころカンテン堂は、勝手に募集した助手・まりこと共に、台湾での調査を終えた。そこで真理子の台湾渡航の目的である卒論研究に突き当たる。それは、博山炉の、いわやを持ち上げている細い管。その隘路。<風はここを吹いてくる。この風に当ると、女はなぜ妊娠するのか>であった。
真理子の足取りと、桃太郎の母。まりこから真理子へ贈られたアンモナイト。真相はその中にある……!!
「息」は隘路をめぐる。
代わる代わる訪れる隘路をくぐり、まりこと名のる女とカンテン堂は、真理子の「息」を求めて奔走する。
日本と台湾を駆け抜けた原始睡眠の果て、唐十郎・博山炉ロマンチシズム!!

これはこの芝居のパンフレットに書かれたあらすじのような宣伝文句のようなものから抜粋しました。
これを読んでもさっぱりわからないのですが、この物語が1990年に実際に台湾で起きた日本人女子大学生殺人事件を題材にしたものであることはわかります。
唐十郎は新聞の小さな記事から一気に物語を増殖させる天才ですが、当時のワイドショーの格好のネタになったこの事件に唐十郎が関心を持ったのは、被害者の女性が事件の直前に母親にはがきを出していたことにあるのでしょう。
理不尽で許しがたい事件に巻き込まれ、亡くなった一人の女性が出した母親への最後の手紙の内容をわたしは知りませんが、唐十郎はそれを「息」に変え、さらにその息を海ほうずきとした時、その化学反応は台湾の歴史と日本との複雑な関係と、中華圏にとどまらず日本においても今も根強く続く神仙(仙人)思想、とりわけ女仙たちを統率する聖母・西王母と、西王母が住むとされる世界の中心にそびえる崑崙山(こんろんさん)を模した博山炉(はくさんろ)、古代の中国や日本で長寿・不老不死をもたらす不思議な実、破邪の力を持つ神聖な果実として扱われてきた桃、そして当局が取締りを強化しつづけても絶えることのない覚醒剤や媚薬にまで想像力を広げ、ついには清濁混在した台湾と日本の歴史を、真理子がベレー帽に隠した海ほうずきに浮かび上がらせたのだと思います。
そして、「実在の事件をねじまげ、被害者の女性への人権侵害」ともとられかねない物語の中に、実は亡くなった女性への深い哀悼が込められていると私は思います。唐十郎はとても優しい、悲しいまでの優しさで、この女性の失われた命を一方の天秤皿にかけ、もっう一方の天秤皿に猥雑で喧噪に満ちた時代の中で非業の死をとげた命をいつくしみ、三千年の命へとみちびく西王母(「桃太郎の母」)の伝説のすべてを乗せたのではないでしょうか。
わたしは「桃太郎の母」という題名がとても不思議だったのですが、芝居を観た後、日本のおとぎ話に登場する桃太郎やかぐや姫や一寸法師(この芝居では探偵・灰田のライバル)など、柳田国男が「小サ子」と称したヒーローやヒロインはおじいさんが別の女性と交わってできた私生児なのか、それともキリスト教の聖母マリアともちがい、川や竹など生きとし生けるものの源泉をつかさどる自然そのものを母とするのかと考えました。
そして、この芝居の登場人物が持つてんでばらばらに見える物語と饒舌な言葉の奥から、真理子とまりこの心の交換の中から、さらには昔懐かしカンテン棒で迷推理をするさえない探偵・灰田のロマンチズムの彼方から、静かで無垢で切ない命のリレーのバトンを渡されたような気がします。

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石田英一郎・著「桃太郎の母」

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