「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」・島津亜矢と唐十郎

4月28日、毎年恒例の「唐組」公演に行きました。今年の芝居は「ジャガーの眼」で、1983年に亡くなった寺山修司の追悼を込めて1985年に状況劇場で初演した芝居です。高校時代から今も、いわゆる寺山教の信者だったわたしにとって感慨深い芝居でしたが、芝居のことは次の記事とするにして、その前に同好の士・岡山のYさんご夫婦とたっぷり3時間飲みながらいろんな話ができた大事件について書いておこうと思います。
Yさんは岡山の大学の先生で、ふつうなら全く出会うはずもなかったのですが、数年前になるでしょうか、わたしの島津亜矢に関するブログをごらんになり、メールをいただいたのがきっかけで、ブログとフェイスブックで交流してきました。
しかも島津亜矢だけでなく、わたしが唐組の芝居を毎年楽しみに観に来ていて、Yさんもまた毎年わざわざ岡山から唐組の芝居を観るために大阪に来ていたという、あまりにも不思議な偶然が重なり、もう何十年も前からの親友のように思ってしまいました。
わたしが島津亜矢の存在を知りファンになった10年前は、長い歌手歴がありながらまだ演歌のジャンルの小さな枠の中で不遇ともいえる環境の中、熱烈なファンに支えられ、地道に歌手の道を一歩一歩その足跡を確かめながら突き進んでいた頃でした。
それから現在に至るまでの進化はめざましく、そんな彼女の進化をYさんとわたしはお互いのことを知らないまま共に見届けてきたのだと思うと、あらためて驚きとともに誇りにさえ感じました。
島津亜矢の熱烈なファンというだけでも、きわめて特異な同志だと思うのですが、なんと唐十郎の追っかけを何十年も続けてきたということになると、不思議な偶然を通り越した運命的な出会いとしか言いようがありません。しかも、お話を聞くと1970年代からと言われていて、わたしもまったく同じころからのファン歴で、積もる話どころではありませんでした。
わたしの人生の中で唐十郎と寺山修司は特別な兄貴分で、彼らを知らない人生などありえず、いわば現実の人生とは別のもうひとつの人生、空想の人生で、わたしは何者か、何者になりえるのかと問いつづけ、彼らの後を追いかけてきたのでした。
Yさんもまた青春時代に唐十郎の芝居と出会い、もうひとつの人生をひた走って来られたのでしょう。
そう思うと、Yさんとわたしの出会いは、シュールレアリスムにならえば「手術台の上のミシンとこうもり傘との出会い」ほどの偶然と宿命がないまぜになった奇跡、大事件だと思います。
3時に唐組の紅テントの前で待ち合わせし、天満宮の近くの飲み屋さんに入りました。
わたしはここ数年、前の職場の同僚だった女性の友だちと唐組の芝居を一緒に見に行っていて今年も彼女と一緒だったのですが、Yさんも連れ合いさんと来られていました。
4人とも島津亜矢と唐十郎のファンという不思議が重なり、他の人たちとは話題にならない会話を延々と3時間もしながらもまったくあきることがありません。
その上に、Yさんの連れ合いさんがまた素敵な人で、Yさんの話では大学院生の時にYさんが見染め、それからずっと今も連れ合いさんに恋しているのがわかり、Yさんが連れ合いさんと共に生きてきた人生が、唐十郎と島津亜矢によって彩られている「もうひとつの人生」なんだと、とてもうらやましく思いました。
わたしはといえば、ほんとうに奇跡といえるYさんと連れ合いさんとの出会いに酔いしれてしまい、いまとなっては何を話したのかもはっきり覚えていないほど舞い上がってしまったひとときでした。
ほろ酔い気分でテントにもどり、世界のもうひとつの暗闇と薄皮一枚でつながっているテントの空間で繰り広げられるもう一つの現実にたましいがさらわれたまま、幕が下りた芝居の外でYさんとお別れしました。
来年も逢いたいなと思いながら、また少し寒くなった春の風にほほを打たれながら帰りました。
唐版「ジャガーの眼」と寺山修司については、次の記事とします。

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