コロナ後の新しい戦前か遠い戦争の記憶か 唐組「透明人間」

あれは透明人間が歌っていたんじゃない、孤独な男の歌だった

「浮かんで、行け、どこまでも逃げて行け。そして、又会う時、この水中花の誓いを忘れるな。おまえが、もう俺を忘れていても、俺は、また、この水中花に似たものを、おまえにかざそう。そしたらきっと俺と思え」(劇団唐組第71回公演「透明人間」)

 4月30日の日曜日、神戸の新開地の近くの湊川公園に、唐組の芝居を観に行きました。
 唐十郎が状況劇場をたたみ、新しく立ち上げた唐組の足跡も1989年からすでに30余年の時間が流れました。テント小屋の密室空間で繰り広げられる物語は悪意と裏切りと偽善にまみれ、希望と絶望と空想と悪だくみの物語なのに、なぜか本当の悪者もほんとうの正義の味方も登場しません。噴出する言葉の波にさらわれ、いつか見た夢といつか聴いたなつかしい流行歌に身をゆだねている間に、わたしは街の真ん中に突然現れたテント小屋の中の袋小路が世界の現実そのもので、本当の悪夢は実はテント小屋のそとにあることに気づくのでした。
 実際のところ、世間知らずの貧乏な坊やで、どうすれば大人になれるのかすらわからなかったわたしが人生を学んできたのは現実の世界ではなくいつも架空の物語からで、その中でも状況劇場から唐組へと受け継がれたテント小屋が一番の学校でした。
 わたしは全共闘の世代で、現在の日本社会の運命が決まってしまったといっても過言ではない時代、同世代の若者が必死に政治活動をしていたというのにわたしはビルの清掃で食いつなぎながら、政治に無関心というより政治や社会や職場や地域や、そして家族の力が及ばない秘密のコミューンを夢みて、数人たらずの友人たちとひっそりと共同生活をしていました。
 しかしながら、いまから思えば生活費をシェアし、政治に無関心な若者だったわたしにも、政治や社会という現実の風はほこりとともに入り込んできました。とくに権力と暴力はどんな小さな集団や人間関係のなかにもするりと忍び込んでくるのでした。
 結局のところ、どんなに逃げつづけても秘密のコミューンなどあるはずもなく、わたしは数少ない友人と別れ、おずおずと街に出るしかありませんでした。
 赤いテント小屋は今も昔も、そんなわたしのもうひとつの隠れ家でした。

戦時中の中国大陸と焼き鳥屋をつなぐ悲しい幻想と国家の闇

 ある暑い日、僕の町内に「水を恐がる犬」の噂が広がった…。それを調査した保健所員の田口は焼き鳥屋の2階にたどりつく。座敷の押し入れに籠ったきりの飼い主の合田は、戦時中に軍用犬の育成に係わっていた。そこで合田からこの騒動の張本人が居候の辻だと知らせされる。辻はかつての合田の同僚調教師の息子である。父親は戦時中の中国福建省の軍用犬養成所において寵愛した犬を逃がしたことから、中国人の愛人を溺死させられた悲しい思い出を息子に引き継がせる。息子がその呪縛から逃げられず、現在の底辺の袋小路・焼き鳥屋を舞台に父親の怨念を解き放つ時、近くのスーパーの店先の水たまりは海を越え時空を超えて福建省の沼とつながり、そこから暗い過去が逆流、循環して焼き鳥屋の水槽へと戻ってくる。 

 男は数人おりました。雨は横なぐりで、水かきさの増えたあの沼の前に立たされると、一番えらそうな医務官が、また道端から、ダリアの花を抜き取り、それに重しの石をつけ、もう調教師はつけない、モモひとりで、取って来させる。そう言って、沼底に放り込みました。突き飛ばされ、沼にはまると、水かさは肩の辺りで、まだ雨が足りない。口まで来るのを待とうと、フチを何度もめぐり、笑って見下され、あたしは、モモと叫ぶあなたを見上げ、もう、モモと呼ばないで、そう呼ばなければ、許される、藁をもつかむ気持ちでそう言っておりました。
 でも、雨音で声は聞こえず…(わたしは)医務官を殺せといいました。雨音で伝わらず、情け知らずの沼底で、何度も、モモと呼ぶなと言っても聞こうとしないあなた、そして、楽しそうに見つめ下ろすあの人達を見上げ、医務官を殺してくれと。雨は朝にやみ、空の映った沼に、ダリアの花をつかめなかった女が浮いておりました。

 この長いセリフを何度も呪文のように語り唱えながら、現在の日本の底辺にうごめく風俗女性をめぐるいさかいは戦時中の日本の近・現代史の暗闇へと広がり、歴史のるつぼで再構成され、せり上がってきます。父親の愛の物語にとりつかれてしまった息子の幻想は国家に見捨てられた理不尽な出来事をよみがえらせるのです。途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史を呼び覚ますために…。ちなみに「透明人間」とは父親の怨念に取りつかれた息子の幻想であるようです。そして、この幻想を呼び覚ます歌は、1943年の戦時下につくられ、大ヒットしたというプロパガンダ映画「阿片戦争」の主題歌「風はどこから」で、この歌でつながり歌うモモとモモ似の二人の女性は、この映画の姉妹と微妙に重なっています。
 この芝居では先ほどの長いセリフと同じく、この歌が現在の日本のどこかの吹き溜まりと中国大陸をつなげ、ここでは語られないもののかつての「大東亜共栄圏」という日本の侵略戦争を正当化し、敗れ去った巨大な夢と野望に傷つけられ踏みにじられた者たちの鎮魂歌のように何度も何度も歌われ、テント小屋に溶け込んでいきます。

風はどこから吹いてくる 沖のジャンクの帆を吹く風よ
情けあるなら、おしえておくれ あたしの姉さん、どこにいる

 言葉が出ないモモと、中国人らしいモモ似が入れ代わり、この歌を中国語と日本語で歌うシーンには、虐げられた姉妹を歌うこの歌の出自から現在の底辺で生きる風俗女性とかつての日本軍に蹂躙された中国女性が時空を超えて重なり合い、胸に迫るものがありました。

幾時代かが過ぎまして、忘れられた時代の風が吹いています

 わたしはたしか2015年、唐組の「透明人間」を観たのですが、今もさほど変わりませんが、よくわからないというのが本音です。それでもこの芝居に登場するすべての役者がそれぞれの役を演じながら日本社会の現実を穿ち、日常の反復の底によどむ暗い穴から猛烈な勢いで水があふれ出るように、わすれてしまってはいけない歴史を手繰り寄せる、そんな芝居の力に感動するとともに圧倒されるのです。
 神戸公演の千秋楽は超満員で、今回はまた一段と若い役者と若い観客に囲まれて幸せな時間を過ごしました。そして、紅テントの劇的空間が解体された彼方、登場人物も切ない歌も街の闇に消えてしまい、わたし自身も行方不明になってしまうのですが、また来年、行方不明になったわたしを取り戻すために紅テントの中にもぐり込むことでしょう。

あれは誰の
涙だろ
夜中に
いつも聞いている
ひさしにあたる
さみだれは
いつも代わりに
泣いている
あれは誰の涙だろう
誰の代わりに
ひっそりと
ぬれた涙が
かわかない