純情だけをかばんに入れて、同時代を生きるいとおしいひとへ

探せっ、一瞬のまばたきの、中の絵を!唐組・第75回公演「紙芝居の絵の町で」
使い捨てコンタクトレンズのセールスマン・牧村真吾。彼が肌身離さず持ち歩く『紙芝居集成』には、<題名不詳・作者・作画不詳>という、謎の一枚が掲載されていた。その絵の謎を知るのは、往年の路地の英雄・紙芝居屋の情夜涙子のみ。牧村は、その謎を解くべく、仕事もそっちのけ、ホカ弁屋・染井るいことともに情夜の棲む、ひしゃげた老人アパートに通い詰めていた。ある日、情夜のもとに届いた、往年の好敵手(ライバル)たちからのSOS。情夜は、彼らのために一肌脱ごうと車いすでアパートを飛び出すが、それはヘルパー派遣会社「ネンネコ社」の仕掛けた、情夜を「下ろし屋」詐欺に仕立てるための巧妙かつ危険な罠だった――。
牧村と染井は、窮地に陥った老紙芝居屋を救うため、<紙芝居の墓>へと足を踏み入れる……。(「紙芝居の絵の町で」公演パンフレットより)
4月19日、神戸新開地駅近くの湊川公園に、唐組・第75回公演「紙芝居の絵の町で」を観に行きました。実は15日に告示された能勢町議会議員選挙の投開票日を翌日に迎える選挙活動最終日で、わたしは2期目の当選をめざす難波希美子さんの後援会にあたるグループの共同代表をしていて、普通なら選挙事務所に張り付いていなければならないところでした。
しかも告示日に合わせた作業に疲れ、16日の夕方からリタイアしてしまったのですが、この芝居だけは外せないと能勢から遠く新開地へと向かったのでした。
唐組の芝居は毎年欠かさず観てきたのですが、昨年は体調がよくなくて観に行くのを断念したところ、5月に唐十郎がなくなってしまい、こんなことなら是非にでも観に行くべきだったと後悔しました。そんなわけで今年はなんとしても観に行くことにしていたのでした。私にとって山田太一につづいて唐十郎と、わたしの青春のリアルを彩った特別の存在だった人たちが次々と去って行ったことは精神的にとてもつらい事でした。
紅テントに置き忘れたもうひとりのわたしに出会うため
芝居が始まるとすぐ、わたしは何とも言えない気持ちになり、涙がこぼれそうになりました。それは昨年に亡くなった唐十郎への追悼の想いもありましたが、それよりも2年ぶりにまた紅テントの空間に戻って来れたことがとてもうれしく思う感慨の涙でした。
1974年、状況劇場が大阪の天王寺野外音楽堂で「唐版 風の又三郎」を上演し、わたしははじめて紅テントの中に入りました。状況劇場が解散し、唐組になってからもぼ毎年観続けてきましたが、今でもほとんど理屈で言えば何もわからないままです。しかしながら、紅テントの魅力に取りつかれたわたしは、青春が過ぎ去った20代後半後から77歳の老人になる今も、いつのまにか半世紀が過ぎてもまだ紅テントの空間から抜け出せないというか、一年に一度の関西公演に足を運び、現実と芝居空間の間を行き来しているのでした。
染井の持つ、魔法のお弁当箱が鳴る!
「瞳」という名の窓から引き抜かれる何枚もの紙芝居絵! 絵の中から飛び出す物語が現実世界を縦横無尽に縫いつくす!
次をめくれば、身辺(あたり)が変る、抜くな、めくるな、ホカ弁屋、「恐ろしいこと」の頁がそこに待つ!!
(「紙芝居の絵の町で」公演パンフレットより)
紅テントの中にいると、もうひとりの自分が芝居の中に溶け込んでいくような不思議な感覚になります。そうなってしまうとたとえ筋書きも芝居の背景も知らなくても、すでに観客ではなくなってしまったわたしは、不条理でも不可解でも理不尽でも、うろうろぼろぼろしながらも暗闇のかなたへとつき進むしかなくなるのでした。そこで演じられる少年少女の純愛物語の裏側では日本の近・現代史の暗闇が広がり、途方もない虚構から反歴史と呼べるもうひとつの歴史が呼び覚まされます。そして、大団円を迎えると密室空間がぽっかりと開かれ、登場人物が現実の夜の街へと消えていこうとする時、わたしもまた悪意に満ちた現実に抗い、紅テントに立ち現れた無垢のたましいとともに闇の向こうの光へと一歩踏み出す勇気を持ちたいと思うのでした。
政治も歴史も国家も愛も友情も悪意も紅テントが教えてくれた
2006年初演の「紙芝居の絵の町で」と題した今回の芝居は、街の日常からは消えてしまい、今は保存文化として受け継がれている紙芝居が題材でした。使い捨てコンタクトの営業をしている牧村真吾は、彼が大事に持ち歩く紙芝居全集の中の作者不明で一枚しかない紙芝居の謎を追って、伝説の紙芝居屋・情夜涙子にホカ弁を持って通い続けます。彼とホカ弁屋の店員・染井るいことのほのかな恋がとぎれとぎれに物語を紡ぎます。
一方ですぐカッとなる映画の看板書きとその恋人ひとみとの愛もまた交錯し、物語は捨てることが出来ない膨大なコンタクトレンズ一枚一枚に最期に映ったはずの風景と、消え去った戦後の子どもたちの街の記憶が重なり、戦後から高度経済成長へと積み上げた楼閣の虚妄を一枚の未完成の紙芝居の絵の中に再現するのでした。
そこに絡むのは今現在もこれからも絶えることがないであろう特殊詐欺のグループが介護事業に姿をくらまして身を潜ませている恐怖、老人をだまして特殊犯罪の犠牲者にするだけではなく、この物語では犯罪に加担させるという、20年も前の芝居なのに今を予見する圧倒的な悪意でした。
思えばわたしの子ども時代のリアルな風景だった紙芝居、しかしながら貧乏な家庭の子どもが電信柱からのぞき込んだ紙芝居の絵は、街のあちこちに戦争の傷跡が残り、焼け焦げた建物や、街のはずれの原っぱに捨て遺された欠けた茶碗ややかんやちゃぶ台などの所帯道具が散らばっていた時代に、街の映画館の色褪せたポスターとともに数少ない「ここより他の場所」へといざなってくれるキラキラした夢の世界でした。
70年の時を経て、紅テントの中で繰り広げられた物語の内と外、紙芝居の絵の町とかつての賑わいを記憶するわびしい町、時空を行き来する儚い夢と理不尽な現実。そのあいまいな境界に張り巡らされた糸を潜り抜けて立ち去っていく純情物語の行方はどこなのか…。
70年の時を映してきた無数の使い捨てコンタクトレンズが沈む群青の海が時代の果ての紙芝居の空へとせりあがる時、この芝居を生み出した20年前の唐十郎と唐組は、純情だけをかばんに入れて、同時代を生きる全てのいとおしいひとへの愛のメッセージを届けてくれたのだと思いました。果たしてわたしたちの純情はこの国の、この世界の刹那的な暴力と、爆走し自己増幅しつづける巨大な悪意をくぐりぬけ、希望の光を頼りに新しい旅を始めることができるのでしょうか。
この芝居は登場人物が多く、演出の久保井研は若い役者たちを中心にして唐十郎の物語を彼女彼らの身体と心を通してわたしたちに語ってくれました。最近少しだけなじみを感じるようになったクラシック音楽の若き演奏者たちのように、唐組とその役者たちは決して過去の物語にならないいくつもの台本から未来へとつづく時代の予感と警告を何度も届けてくれることでしょう。唐組の新しい出発を感じさせた芝居でした。