カルメン・マキ

少し前になってしまいましたが、7月10日、カルメン・マキのライブに行きました。
カルメン・マキは1968年、寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』に感銘し、その年の8月公演「書を捨てよ町へ出よう」で初舞台を踏んだ後、翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー、ミリオンセラーとなり、その年の紅白にも出場しました。
その電撃的なデビューは当時寺山教の信者のひとりだったわたしにも強烈な印象を与えました。
その後歌謡曲を何曲か歌った後、ジャニス・ジョプリンに傾倒し、当時はまだ珍しかった女性のロックスターとして野心的な音楽活動をすることになりました。この頃の「わたしは風」、「閉ざされた町」、「空へ」など、ロックの名品は今聴いてもすばらしいものです。
しかしながらわたし自身はビートルズが解散した1970年以後、音楽的な興味が薄れてしまい、かろうじて1960年後半に活躍した「ジャックス」以外、国内外を通じて歌謡曲以外の音楽とは遠ざかっていたため、カルメン・マキの音楽を聴くことがないまま、長い年月が経ってしまいました。そんなわけで、わたしにとってカルメン・マキは寺山修司にかわいがられ、世に出た17歳の歌手のままのイメージでした。
ところが、数年前の映画「探偵はBARにいる」の主題歌「時計を止めて」(作詞作曲・水橋春夫 1968年 ジャックス)をカルメン・マキが歌い、映画にも出演していて、わたしの持っていた美少女のままのカルメン・マキのイメージが一気に変化しました。
寺山教の信者のひとりだったわたしは青春時代から68歳になる今に至るまで、よくも悪くも寺山修司のくびきから解放されていないと思うことがあり、振り返ればわたしの人生をある意味生きにくくさせてきたかもしれません。しかしながら一方でどんな思想書や哲学書よりもたった3分の「歌謡曲」が死ぬことを思いとどまらせ、今日一日、明日一日を生きなおそうとする勇気をくれる場合もあるという寺山修司の言葉にどれだけ励まされたことか数えきれません。
直接にはまったく無関係だったわたしですらこれほどの影響をうけてきたわけですから、カルメン・マキのようにデビュー当初はよくも悪くも寺山修司の世界の中で生きていた人が、その強い影響力から自由になるには相当の時間を必要としたことでしょうし、その意味では1970年代の伝説的ロックバンド「カルメン・マキ&OZ」が彼女の新しい人生を切り開く力をくれたのでしょう。しかしながら、日本のロック音楽がまだ黎明期ともいえる状況で、時代を切り開くためにはまた相当の格闘を彼女に強いたであろうことは、今までの音楽歴から想像できます。
映画「探偵はBARにいる」をきっかけに彼女の近況を知り、ライブに行ってみたいなと友人に話していたところ、今回のライブ情報を教えてくれました。当日はその友人、高松次郎展を一緒に観に行ったKさんと、神戸の島津亜矢に一緒に行ったFさんと3人で行きました。
場所は地下鉄天六駅の近くの古書店で膨大な古書の蔵書とカフェを併設している「ワイルドバンチ」で、わたしは今回はじめて訪れました。調べてみると時々個性的なライブを開催しているところで、今年の春には三上寛も来たようです。
お店の入り口が受付で、そこから通路を通り抜けると入り口の受付のちょうど裏側をステージにしていて、遅れて行ったにも関わらず一番前の丸椅子に席を確保できました。後ろを振り返ると50人ぐらいのお客さんで、前は出演者と1メートルも離れていない超レアなシチュエイションで、始まる前から心ドキドキでした。
「カルメン・マキ POETRY READING LIVE~語ることは歌うこと、歌うことは語ること~」と題されたこのライブは少し前からはじめていて、関西では初の試みとされる詩の朗読と歌で構成されていました。「音楽の世界の扉を開けてくれた我が師、寺山修司作品を中心に、詩人の友人・知人の作品、自作詩、等々をピアノの音色と共に奏でる朗読と歌のライブ」(カルメン・マキ)とチラシに書いてありました。
わたしとしてはなつかしい寺山修司の詩の世界を、そこから旅立って遠く離れた場所に来たカルメン・マキの「現在」を確かめたいという思いでライブを聴きに行ったのですが、カルメン・マキさんにはとても失礼な言い方ですが、「寺山修司」と遭遇してしまい、そこから人生を歩き始めた「同志」としてのシンパシーを強く感じ、時々涙が出そうになりました。もちろん、寺山修司以外の詩人の詩にも心が共振しましたし、有名な「時には母のない子のように」などのヒット曲もなく、ロック時代の歌もなかったように思うのですが、歌心があるけっこう凄腕のピアノをパートナーにして、ジャズ、ブルースをベースにゆったりとした中に時代がかくしつづける「悲鳴」が伝わる、とてもスリリングなライブでした。
ほんとうにすぐ目の前にカルメン・マキが少し高い丸椅子に座り、若い頃と変わらない遠くを見るような瑞々しいひとみと目を合わせるのが恥ずかしく、その距離が短ければ短いほど濃密な空気によってわたしと彼女を無限に引き離し、果てしない彼方には美少女時代からは想像もつかない現在のカルメン・マキの強烈なカリスマ性がわたしを圧倒したのでした。
最初の朗読は寺山修司で、1945年の玉音放送のくだりはこれまでも彼の本で何度も読みました。「玉音放送をききながら、汗ばんだ手に、つかまえたばかりの唖蝉をにぎりしめていた。苦しそうにあえぐ蝉の息づかいが、心臓にまでずきずきと、ひびいてきた。あとになってから、あのとき、蝉をにぎりしめていたのは、右手だったろうか、それとも左手だったろうか?」
「時間は人たちのあいだで、まったくべつべつのかたちで時を刻みはじめていて、もう決して同じ歴史の流れのなかに回収できないのだ、と子供心にも私は感じていたのだった」。
「歴史は事実ではなく、ストーリーである」と言った寺山修司ですから、自分史においても虚言やねつ造、模倣が指摘されていますが、だからこそ「玉音放送」のくだりは「もう大人たちも歴史も信じない」という少年の強烈な心情をみごとに時代の言葉とした寺山修司の天才ぶりが最大限に発揮されています。そして戦後70年、安保法制によって「いつでも戦争ができる国」にしようとする国家の力が大きくなろうとする時、カルメンマキの朗読によってよみがえる寺山修司の言葉はわたしたちにとってとても大切なメッセージなのだと思います。
寺山作品ではもうひとつ、タイトルは忘れましたが寺山修司版ギリシャ神話「パンドラの箱」で、パンドラが開けてはいけない箱を好奇心に勝てず開けてしまい、そこからあらゆる災いが世界に放たれてしまうのですが、最後に箱の中に「希望」という病気が残ったというものです。サン・テクジュベリの言葉を引用した「人間が最後にかかる病気は希望という名の病気である」という名言は、寺山修司の数々の名言の中でもわたしが好きな言葉で、カルメンマキの朗読でこの言葉を久しぶりに聞くことができてとてもうれしく思いました。わたしはこの言葉をさらにもじって「たとえ人間がかかる最後の病気であったとしても、わたしは希望という病気にかかりたい」と口癖のようにいいながら自分をはげましていた時期がありましたが、結局その意味はまったく同じだと最近気づきました。
歌では「暗い夜明け」と、最後に歌った「The Man I Love」が素晴らしかったです。
「The Man I Love」は、ガーシュウィン兄弟が1924年のミュージカル「レディ・ビー・グッド」のために書いたのですが使われず、眠っていたところビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドなどがカバーしてジャズのスタンダードになった曲でそのエピソードを語った後に歌いました。
今頃になってはじめてカルメン・マキのライブを聴いたわたしですが、今のカルメン・マキと出会ったことがとてもうれしいと感じた一夜でした。

カルメン・マキ「時計をとめて」作詞:作曲 水橋 春夫(ジャックス1968年)

カルメン・マキ「2011 暗い夜明け」

カルメンマキ&OZ「空へ」

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