わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」 NO.1

2017年9月8日、河野秀忠さんが亡くなりました。
1942年生まれの河野さんは、酒屋の店員やトレーラーの運転手などさまざま仕事をしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組み、1971年、障害者の友人を得て障害者解放運動にたどり着き、その後は亡くなるまで生涯現役の闘士でした。
脳性マヒ者協会・青い芝と映画「さよならCP」上映運動、関西青い芝運動、全障連の設立、障害者問題資料センターりぼん社と障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」の発行、自主映画「カニは横に歩く」、映画「何色の世界」、映画「ふたつの地平線」、養護学校義務化反対闘争、医療的ケアを必要とする障害児者の問題など、全国の障害者運動の現場に立ち会い、1995年の被災障害者支援「ゆめ風基金」の設立者の一人として自然災害による被災障害者の支援に尽力しました。
一方で障害児教育創作シリーズや人権啓発絵本シリーズなど、教育や人権啓発図書の執筆と講演などで、全国の自治体の教育・人権啓発施策にも影響を与えました。
そんな河野さんの死を驚きと悲しみの中で受け止めた方は数えきれないでしょうし、河野さんの講演を聴いたり著書を読んだ人もふくめて、河野さんによって人生が変わったと告白する人は100人や200人どころではないと思います。
わたしもまた出会って30数年、河野さんによって人生が変わった人間のひとりでした。
ひとりの人間が生涯に出会う人の数はそれぞれでしょうが、河野さんほど多くの人々と出会い、時には激しく時にはやさしく障害者の問題を語り、行動し、共に酒を酌み交わし、人生の宝物を分け合ったひとは数少ないと思います。
そんな河野さんの数々の出会いや交流やたたかいをそれほど知るわけではなく、また彼にとってわたしがいい友人であったかどうかも心もとなく、そんなわたしが彼との思い出を語ることにどんな意味があるのかわかりません。
しかしながら、きっと数多くの人々がそうであるように、わたしの心の中にぽっかり空いてしまった寂しい空洞を埋めるためには、河野さんとの思い出を涙が枯れ果てるまで語り、書かずにはおられないのです。
障害者運動の本流は別の方々にお任せするとして、豊能障害者労働センター在職時、機関紙「積木」の編集者のひとりとして河野さんに依頼し、長期の連載となった「私的障害者解放運動放浪史」(のちに「障害者市民ものがたり―もうひとつの現代史」という本になりました)になぞって、わたしの「極私的路地裏風聞譚・河野秀忠さんがいた箕面の街」を書き残しておこう思います。

河野秀忠さん、河野保子さんが箕面の街に来なかったら、箕面の障害者運動はなかったと思います。共に学ぶ教育運動は隣町の豊中の教育運動と呼応して、障害者の人権・生活運動は1981年の「国際障害者年」を機に設立された「国際障害者年箕面市民会議」から、河野さんの箕面の運動が始まりました。
その中でも「国際障害者年箕面市民会議」が果たしたものはとても大きなものでした。
この頃、全国各地で同じような組織ができましたが、ほとんどが時の労働組合のナショナルセンター(全国中央組織)だった総評傘下の労働組合のみで構成されていました。
けれども箕面だけは、障害者個人、その家族や福祉関係のボランティアに加えて、それまで障害者と出会ったこともない一般の市民が個人で参加できました。
このことが福祉関係者や活動家だけでなく、その街に暮らすべき障害者とその街に暮らす人々との対話と協働による箕面の障害者運動の方向性を決めることになりました。
「国際障害者年箕面市民会議」の設立に向けて河野さんの刎頸(ふんけい)の友であった浜辺勲さんと出会い、障害者と障害者の家族、そして地域の市民たちと出会った彼は、その強烈な個性でまわりの人々を扇動、鼓舞し、勇気をまき散らしました。
河野さんのライフワークとなった1979年発刊の障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」を魂の拠点にして、全国各地の 障害者の肉声を丁寧に拾い集め、ふつふつと立ち上る障害者解放運動の炎に身を焦がしながら、河野さんは自分の住む箕面の街にもその炎を発見したのだと思います。
人間の解放へとつながるすべての道を先導して歩くのは学者でも役人でも政治家でもなく、市井の人々であることを知った彼がもっとも頼りにしたのは障害者であり生活者としての市民でした。

60年安保、70年安保や反戦運動、沖縄問題、部落問題などの運動の果てに障害者と出会ったとき、それまで長きに渡り「人民の解放闘争」と声高に叫んできたけれど、その「人民」の中に障害者が入っていなかったことを教えられ、がくぜんとしたと言います。
そして、中学卒業後、酒屋店員をしながら社会党員となり、大阪十三の中小企業の工場労働者をオルグ(組織)し、組合をつくり、待遇改善や「首切り」反対闘争をしながら傾倒していたマルクス主義もまた、結局のところ健全者の論理でしかないことに気づかされたのです。
そのことを教えてくれた横塚晃一さんとの出会いを、河野さんは酒を飲みながら何度も話してくれました。それは「さよならCP」上映会で、上映会の後に横塚さんに話をしてもらうことになり、新大阪駅にお迎えに行った時のことでした。
姿を現した横塚晃一さんは、駆け寄った河野さんに軽く挨拶をして、ひょこたん、ひょこたんと歩き出した。階段にさしかかると、手にした風呂敷包みでバランスを取りながら歩く。途中で、河野さんがその風呂敷包みを持ちましょうと手を出すと、横塚さんはぐらりとバランスを崩し、危うく、階段から転げ落ちそうになった。
その夜、横塚さんは、「河野さん!ぼくは、誰かの支えが必要な時はぼくがそのことを伝える。ぼくの意思を無視して、ぼくのことに手を出さないで欲しい。小さなことだけど、障害者の人権にとっては、大切なことなんだよ。」と。河野さんは心底から恥じた。本当に、事の本質を理解していない自分を恥じた。

このエピソードは河野さんと知り合った人で知らないひとがないぐらい、いつも自分を戒める言葉として、河野さんが大切にしてきたものでした。
箕面に限らずまだ障害者が街で見ることもほとんどなく、親元から独立して暮らす障害者も少なく、大人になれば山奥の施設で過ごし、さらにもっと親亡き後の施設を障害者の親たちが要求し、親が障害児を殺す事件がたびたび起きていたあの時代に、障害者の意志を無視する健全者のおごりを鋭く指摘した横塚さんは素晴らしい人でしたが、そのことにすぐに気づき、その後の人生の戒めとした河野さんの、見た目と大違いの繊細な心が、その後に出会ったわたしをふくめた数多くの人々に静かな勇気を与えてくれることになります。
(つづく)
Janis Joplin - Summertime (Live -1969)
河野さんが大好きだったジャニスのサマータイムです。

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