世界の今を予感した1990年の年頭所感・「河野秀忠さんがいた箕面の街」NO.5

1982年4月、豊能障害者労働センターの発足とほぼ同じくして機関紙「積木」が創刊しました。
河野さんは労働センター設立と同時に機関紙の発行を強く提案していました。そこには障害者問題総合誌「そよかぜのように街に出よう」の編集長としても、また長年のさまざまな活動の経験からも、日々の小さな出来事から障害者運動の理念まで、情報を発信することの大切さを身に染みて感じていたからだと思います。
機関紙の発行にともない、障害のあるひとないひとも自分たちの日常活動を知らせることで応援者が現れ、労働センターが専従スタッフだけの存在ではなく、市民センターのような役割を持つことになっていきました。
当初は100部にも満たなかったものが今では15500部となり、機関紙の発送作業は障害者スタッフがすべての役割を担い、地域のボランティアの方々の応援をいただいています。
河野さんは創刊時からずっと、年の初めの機関紙に年頭所感を書いていました。彼にとって労働センターの機関紙「積木」への寄稿は特別な意味を持っていたようで、よく「一番緊張するねん」と言っていました。雑誌の編集長というジャーナリストであり、また障害児教育創作教材などの著者である彼が、北大阪のみすぼらしい団体のフリーペーパーを高く評価していたのは、機関紙「積木」の読者が粉せっけんやカレンダーなどの物品の購入者やバザー用品を出してくれたひとなど、どちらかというと障害者運動とは無縁だった庶民がほとんどだったからだと思います。
後には「私的障害者運動放浪史」の連載を始めることになりましたが、それまでは機関紙に文章を寄せることはほとんどなく、若い専従スタッフにすべてを任せていました。
そんな彼が唯一、力をこめて書いてくれたのが「年頭所感」でした。年に一度、豊能障害者労働センター代表として目線を遠く伸ばし、世界の人権にかかわる運動を紹介、論評しました。日常の活動に埋没するだけでなく、日本社会全体から世界にまで視野を広げ、障害者問題の普遍的な意味を若い専従スタッフに伝えようとしたのだと思います。
事実、河野さんが書き続けた年頭所感はほんとうに格調高く、檄文を読むような興奮を覚えたものですが、その中でももっとも素晴らしい文章が1990年の年頭所感でした。
1989年11月、ベルリンの壁が市民の手によって壊され、共産主義国家が次々と崩壊しました。世界が歓喜に包まれたと報じられたその時に、ベルリンの壁をハンマーで壊す市民が手にする自由が、同時に障害者を差別してきた暗い歴史をも内包していると鋭く論じた河野さんの見すえた世界のありようは、資本主義の終焉がささやかれる昨今の世界と日本の現実だったのだと思います。

年頭所感 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.38 1990年1月31日発行
1990年のあさホラけ!サテ、なにかが予感される時でもある!
豊能障害者労働センター代表・河野秀忠

天安門広場の銃火に始まり ルーマニアの銃殺で歴史と血が回転し、流れた
わたしたちが呼吸している、時代と歴史というナンギなシロモノは、どうしてこうも「赤い血」を要求したがるのだろうか。
中国で流された多くのひとたちの血は、それが歴史を選択したひとたちの意志であったとしてもいたましい。
そして、権力の頂点に立った人物が、その行いの結果として銃によって生命を絶たれることも、歴史とひとびとの選択するところだろうが、やはりヤリキレナイ。
「共産主義VS民主化」という構図で語られている、激動のヨーロッパや、日本以外の諸国の動きが、流された血の重さとは関係なくひとり歩きしているように思われるのは、うがち過ぎのカングリだろうか。
共産主義イコール悪、民主化イコール善という、日本人好みの勧善懲悪論で語られる程、コトは簡単ではなかろう。
もともと権力は、国のシステム以外のものではありえない。それが基本的にひとびとに従属している限りは、有効な手段ではあっても、権力にひとびとが従属しなければならない状況に至れば、その権力は、絶対的に打倒されなければならないのだ。
つまり、無効になる。
では、民主化は正しい方法なのか、当然生活者たるひとびとの生活の中から生まれたチエとしての、方法選択として民主化があり、その方法が批判と反批判のシステムを持ち、自らを変革し続ける限りにおいて、おおむね正しいといわねばならない。
しかし、自己を変革する意志を放棄すれば、例えそれが民主化であろうと、ひとびとの頭上に君臨するだけだろう。
障害者運動は、いつもそこのところを主張してきたといつても過言ではない。
障害者といわれるひとびとが、単に「資本の能力主義」によってのみ疎外されてきたのなら、 コトは簡単で、資本の論理のみが敵として、ひとびとによって打倒されればいいのだから。
だが、障害者を疎外する差別の論理は、資本のみにあらず、ひとびとのあらゆる生活場面に根づき、リキを持ち、ひとびとの支持を獲得している事実がある。
愛とやさしさの名において、障害者を「普通の社会」から放逐してきたのは、他ならないひとびとなのだから。
歴史の論理として、そういうひとびとは、打倒されなければならないとわたしたちは、考えるのだがいかがなものだろうか。
その際に流される血は、健全者社会を構成するひとびとの側から出るのではなく、放逐され続けてきた障害者側から流されてしまうことを防ぐのが、わたしたちの「運動」というものだ。

白地に黒く
というようなオカシコイ話は、横においといて、歴史選択によって流された血も赤いけれど、豊能障害者労働センターの会計簿もマッ赤カであることも事実としてアル。
今年こそ、北大阪の障害者問題のけん引センターとして、「白地に赤く」ではなくも「帳簿に黒い字」になりたいものだ。とかなんとか、ドゾ、ドゾ、今年もヨロシク!

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