私的「障害者解放運動」放浪史(その10)

夕陽よいそげ いそいでおくれ
真赤に焼けてる お前を見ると
なんだか苦しそうで泣けてくる
ザ・リンド&リーダーズ「夕陽よいそげ」

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 
元編集長・河野秀忠

豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載

しゃぶられ続けて

 昨年から、収容型の障害者施設、障害者多数雇用企業、あるいは訓練作業所、民間企業の販売活動のなかで、障害者市民への虐待や、サギ、暴行が、これはどこの世界のハナシなのかと疑わせるほど、頻繁に起こっている。ボクたちが、バブル崩壊をザマァミロと横目にしつつ、消費税五%アップにそれほど頓着していない安穏の空気を呼吸しつつ、それらの事件は連続している。
 例えば、安田系三病院の乱脈支配が、最近ことさらのように報道され、中でも「大和川病院」の不当労働行為や、不正運営が新しい事件のように声高に語られているが、それはマッ赤なダマしじゃないのか。すでに相当前からの時間を積み重ねて、多くの精神障害者市民が、偏見と困難の海を漕ぎ渡り、「大和川病院」での精神障害者市民への虐待と殺人事件を指弾し続けていたし、退院を希望する精神障害者市民が数多く拘束されていることを指摘していたのだ。しかしながら、厚生省、大阪府、医師会、警察、裁判所、そして各メディアもまた、無力な対応しか示さなかったし、ヘロヘロと引けた腰つきをしかしなかったのが、事実なのだ。
 同じようなことが、老市民の生活を保障すると呼号する「養護老人施設」でも起きている。老齢年金を詐取され、保険に過重加入させられ、ハテは、ヘルパーに財産をネコババされるという、恥で我が身の赤さを鏡でのぞき見られない、なんともかんともブルドッグ状況。宗教に無縁なボクでも、「末世なるかな」と、つぶやくしかない。
 なぜこのようなことになっちゃうのか。あの怪しい「彩グループ」の福祉資本論に見るまでもなく、「土地がダメなら、福祉があるさ」で、世界に誇るニッポン官僚のトップですら、トロけさせる民度というものがあるからだと、浅学非才のボクにでも知覚できる。HIVに群がり、障害者市民に群がり、老市民に群がって、しゃぶり尽くす。そして、その責任を押しつけあい、「人が死ななければ」問題にはならないと、口を拭う。コトが発覚すると、トカゲのシッポ切り、切りでホンモンの悪の根源は暖かいままだ。
 このニッポン社会には、「土建はあっても、人権なし」であり、少なくとも公的システムは、その精神的バックボーンで動いている。一方で「いらない人々」と規定し、閉じられた空間にマイノリティを囲い込み、人々の視線をかわし切ると、一方でソロソロとしゃぶりにかかる。公的システムが、虐待、暴行という事態に無関心を装うのは、その場所が無くなれば「困る」という事実があるからなのだ。そして切ないことに、それを追認する民度も、またある。
 ボクたちがオタオタするこの時代に、大往生をとげ、自宅からの旅たちを主張、実現させた、ボクの話し相手、小田 綾子(享年75歳・97年2月6日没)の死が語る、「それは特別なことやない。いつもあったことやし、これからもあるやろ。それが続くのも、やめさせるのも、みんなのことやねン」の想いが、痛苦として飲み込む喉に痛い。

テクテクと歩いて

 くだんのKさんとボクは、上映事務局を拠点に、「グループリボン」の組織拡大セールスと、「さようならCP」上映のためにフイルムを担ぐ行脚。その上に、「グループリボン」が宣言した、「自分たちの映画づくり(今や懐かしい8ミリ映画)」を画策しなければならなくなった。「映画を作る」といっても、たやすいことではない。制作のスタッフは、上映事務局にゴロゴロしているヤカラを使い、シナリオ作りから監督までは、ボクがなんとかするとしても、問題は、それら全員がトーシロであり、決定的なことは「映画作りにはカネがかかる」ことを知らなかったことだった。今では、ビデオで手軽に映像を楽しめるけれど、当時にそんなものはない。で、16ミリには手が届かないから8ミリにしたものの、相当な銭持ちの道楽の世界にあった映像は、フイルムを湯水のごとく消費すると、後で知ったのだった。
 カネ、ヒト集めと、フイルム代の競争の日毎が連続するなか、1972年から73年へとカレンダーはめくられる。今は笑って思い出すことだけれども、あまりの多忙ゆえに、休んだ喫茶店に「さようならCP」のフイルムを忘れ、どこで紛失したのかと青くなったこともあった。また8ミリカメラを回す段になってフイルムがなくなり、各自の持ちガネをカキ集め、映写機材屋に幾度となく走ったりもした。個人のボクとして振り返ると、これからはもう期待できないこととして、身体を酷使する年度は幾度かあったけれど、ボクの人生のなかでのベストスリーに入る時代だった。
 時あたかも、71年、国連26回総会での「知的障害者権利宣言」採択に続き、アメリカで「自立生活センター・CIL運動」が旗揚げし、ジャパンでは、障害者市民の生存権を規定する、優性保護法改悪反対運動が広がりを見せ、老市民問題のハシリ、「恍惚の人」が流行語になっていた。
 世界がとうとうと流れている音が聞こえていたのか、いなかったのか。ボクたちは、ただテクテクと歩き続けていた。Kさんとボクは、おカネを出してくれそうなひと、仲間になってくれそうなひとを訪ねては、「映画を作りたいンやけど」と、恋人を口説くように語った。そのほとんどの人脈は、養護学校卒業者名簿と「身体障害者福祉会」の会員名簿をソースにしていたから、たいていの場合、ケゲンな顔色で迷惑がられるのがオチだったけれど、時にはピカリと輝く出会いもあったし、ガク然とするようなことにも、当然出会った。
 阪神淡路大震災のなかから、フェニックスのように立ち上がった障害者市民の支えとなっている、「被災地障害者センター」の代表である、Fさんとの出会いもそのひとつだ。初めて神戸市内のFさん宅を訪ねると、もっぱら相手をしてくれたのは、Fさんのお母さんだった。そのお母さんが何かの用事で席をはずしたトタン、Fさんは眼をキラキラさせて、部屋に敷きつめてあったビニール製敷物を滑るようにして、膝立ちで近寄り、「分かってる。近い内に集まりを持とう」と、独特の早口口調でまくし立てた。そのFさんも、今やリッパなオッサンになった。
 また、姫路市の西のはじっこに住んでいた寝た切りの男性を訪ねると、誰もいない家のなかで、枕元に二食分の茶碗に盛った御飯と、なにがしかのオカズと、更にその横に便器を置いた構図に、ポツンと布団の上に位置している男性が、庭先から縁側ガラス戸越しに見えた。家に入ることもままならず、その光景に暗たんと声を飲み込んだことを覚えている。
 後日、再び訪ねたところ、日曜ということもあって勤めている母親と会ったが、「ウチのことに、他人のアンタらに口出ししてもらいたくない」というセリフを浴びせられ、こりゃあアカンと退散した。それ以来、その男性とは、縁ができなかった。そういう時代が、今の時代を作ったのだ。                                   

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。