私的「障害者解放運動」放浪史(その7)
外は冷たい風
街は矛盾の雨
君は眠りの中
何の夢を見てる?
THE YELLOW MONKEY「JUM」
障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊)
元編集長・河野秀忠
豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載
新しい価値観
1970年初頭は、何度も書いたが「日米安保」とともにあり、それに対抗する熱気がおさまりがたくたれ込めていた時代でもあった。ああ、あの時から25年の変遷は、一体何を語るのか。ナンテ、ちと深刻ぶる。
この間の橋竜とクリキントンの安保談合では、ひとびとの反応遅延をヨイことに、「安保再定義」と称して、安全保障条約がアレヨ、アレヨという間に「完全双務的日米軍事同盟」に出世し、単なる日米の関係から、全アジアを視野に収めた「集団的自衛権」ガイドライン見直しにまで手をつけちゃった。「橋竜の女性に手をつける早さ」は、写真週刊誌などの報道でも定評のあるところだそうだが、戦争に手をつけるのも早い。沖縄・普天間飛行場返還を実現したゾと、コブシを突き挙げるが、それはドン、ドン、ドーンと国内各地への移転玉突きを実現しただけであり、沖縄米軍移転費用(少なく見ても1兆円といわれる)も、ボクたちの税金で補填するという。ジョーダンじゃありませんよ。そんなカネがどこにあるんだヨ。日本という国は、すでに駐留米兵ひとり頭、年間1000万円以上の経費負担をしているんヨ。「中国」や「朝鮮民主主義人民共和国」が何かしそうでアブナイからという、愚にもつかぬ論拠では説明になりゃあしない。「住専処理策税金投入」でも批判テンコ盛りでヨレヨレなんだゼ。
兵庫県南部地震被災地のひとびとに、毎日仮設住宅で息絶える老市民たちに、税金を使うことをかたくなに拒む「橋竜さん」たちが、なんと米軍には寛容にカネばなれがイイことか。25年の隔世を痛感しちゃう。
ボクと横塚大先輩が出合った時期を言葉にすれば、「今までにあったものは既になく、これからあらねばならないものも今はない」ということになろうか。高揚の頂点にあった「反戦」は潮のごとく遠くに去り、妙な腹ペコ感と知的飢餓感がボクたちの日常のそこここに漂流していた。ウンカのごとく群れていた反戦組織は、非日常の疲労を伴って、地域、職場の日常に頭を垂れて帰還するしかなかった。そこに「われら愛と正義を否定する」と、横塚さんたちがひとびとの舞台に登場したのだから、これはもうビックラもん。ボクたちが信じて疑わなかった「愛」と「正義」がケチョンケチョンにノックアウトされちゃったのだから、ボクの眼もテンになろうというものである。
地獄の合宿&行商
当時、少し古いが高田わたるというフォークシンガーが唄っていた「自衛隊に入ろう」という歌があった。「自衛隊に入ろう。自衛隊に入ろう。自衛隊に入れば天国」という、自衛隊を風刺する歌なのだが、何を勘違いしたのか、ある自衛隊勧誘員がその歌を自衛隊賛歌として使いたいと申し出て、失笑を買ったことがあった。
それと同じようなことが、ボクたちの「映画・さようならCP」上映運動にも起こった。ある障害児の親の組織が「ぜひ上映会をしたい」という。よくよくその理由を聞くと、「さようならCP」のさようならのフレーズを勘違いしたらしい。つまり、脳性麻痺(CP)という障害からさようならする、障害を克服する映画だと思い込んでいたのだった。今日的にも、「障害を克服する」という見果てぬ幻想が色濃くあるけれども、当時はその概念がトレンドそのものだったのだ。そのような世間で上映運動を繰り広げようというのだから、いかに世間知らずのボクでも、精力の持続はむつかしい。その上、横塚大先輩のイッカツでシュン太郎のボク。しかしさすがであった。ボクをシュン太郎にしたのも横塚さんだったけれど、シュン太郎から立ち直らせたのも横塚さんだった。
とにかくオロオロするばかりで、的確に上映スケジュールを組むことができない若い障害者仲間とボクに、横塚さんはテキパキ指示を出し、もちろんヒマさえあれば各種の集会や街頭でのビラマキ、定期的に各団体に呼びかけて行なっていた試写会がジワリジワリと奏功したこともあって、上映会の申込みを獲得させた。横塚さん自ら既存の障害者団体に電話をかけては、頭を下げられていた。ここがエライとボクなんか感服させられたものだった。横塚さんにすれば、既存の障害者団体など、変革の対象にしかすぎなかったであろうし、それらの団体の力を借りることは、ある意味で苦痛であったハズなのに、決して高い位置からモノいいするのではなく、自らの思想性を誇示するでもなく、実に誠実な態度で応対されていた。上映会を続けなければカネが入ってこないという決定的なサイフ状況もあったけれど、ボクなんか、「何でこんなヤツに」という表情アリアリで、ペコペコ礼行商を続けていたのだから…。
「教え」というのは、空気のようなものでもある。上映会に臨む移動では、電車や列車(当時、自動車というような高級な乗り物がボクたちの手にはなかった)のなかで、横塚さんは必ず読書にふけっておられた。その読書量の豊富さにはただただ圧倒されるばかりで、貧弱な読書量しかないボクは恥入るしかない。おかげで少しずつ本を読む習慣というか、楽しむことを学んだ。
また、マルクスの文献は人並みには目を通していたボクに、無政府主義の考えを噛み砕くように教示されたのも、鮮明に思い出される。なかでもクロポトキンの「青年に訴う」の解説と時代背景を語る横塚さんの横顔を忘れることができない。
こうしてボクと横塚さんの合宿込みの上映運動は、地獄の特訓の様相を帯びながら、しゅくしゅくというか、ドンガラカッチャンというか、出たトコ勝負で開始されたのでアッタ。そのなかで出合ったひとびとは…。
河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。