私的「障害者解放運動」放浪史(その8)

白い雪のような友情のシーツにアイロンかけても
さみしいおいらのシミが残る、シミが残る
三上寛「ひびけ電気釜!」

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 
元編集長・河野秀忠

豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載

キョロキョロインターナショナル

 先日、大阪府同和地区総合福祉センター・10周年記念イベントで、DPI(障害者インターナショナル)世界会議議長・カッレ・キョンキョラ氏の記念講演を拝聴するチャンスに出合った。
 キョンキョラ氏は、フィンランド出身の車イス障害者で、その運動論は、明瞭で簡潔、シンプルで心が沸騰する意味を満載している。キョンキョラ氏がフィンランドで障害者自身の解放運動を人権運動と位置づけ、猛然と活動を開始されたのが、1970年代初頭のことだったと述べられていた。つまり、時代的には、ボクと横塚さんとが、ヘンなコンビでヨロヨロと「映画・さようならCP」の上映運動を続けていた頃にピッタンコなのである。
 記念講演の後、「われら自身の手で切り拓こう」のテーマで続けられたシンポジウムでも、ボクの兄貴分である牧口さんが感嘆されたように、「日本社会の障害者運動も1970年代初頭から始まっているンやから、結構インターナショナルやってンなぁ。そやのになんでフィンランドのようにならないで、日本社会はカタイまんまなンやろ」と、素直な気持ちで疑問がモ~クモク。やはり闘わねばならんのやろネ。それもあきることのない継続をもって、人間が改心するまで…。
 まさに自分のやっていることが、インターナショナルな活動であるなんてことは、髪の毛の先ほども感じることなく、日毎をキョロキョロと、どこかで「さようならCP」を上映してくれるところはないかとさまようばかり。「さようならCP」こそが、日本社会の障害者観を徹底的に撃ち、徹底するがゆえに障害者市民ナショナリズムをインターナショナルに向かわしめる内実を備えていたこと、そういう映画を抱きしめて、人権解放を毎夜夢見ていたことを、若いだけの取り柄しか持たないボクは気づくハズはなかった。横塚さんは、そういうボクと行動をともにすることで、ひそやかにかつやさしく微笑していたのだと、今確信する。

キモチは伝染する

 横塚さんの叱咤激励、横塚さん自身のセールスで、ポツポツと上映会を引き受けてくれるところが現われ、少しずつだけれど上映時実行委員会は忙しくなってきた。先述した箸にも棒にもかからないやからがタムロする事務所から、フイルムを抱えて横塚さんと出撃する機会が増えた。横塚さんはもちろん、ボクはボクなりの「障害者市民は、ボクと同じく独立した個人なのだ」を、伝わってくれェの気持ちを満面に匂わせて…。
 そのなかのひとつに、兵庫県西宮市の市民会館での上映会があった。映画が終わり、横塚さんの講演も終わって、会場の参加者との意見交換の時である。会場の端から発言があった。高校生とおぼしきニキビの匂いを全身にまとった男の子だった。「ボク、障害者のひととナニかしたいんですが、ローしたらいいんでしょうか」と、言語不明瞭のなかにも、横塚さんの気持ちに伝染したことをうかがわせる真剣な発言だった。しかし、会場のひとびとは、ナニか意味のある発言を期待していたのだろう、男の子の言葉は爆笑ウケしただけだった。このニキビの匂いのする男の子が、当時神戸市内のチョー名門進学高校三年生で、有名な民間障害者収容施設○○の家に、今風にいえばボランティアしていたM君だった。彼は、現在の「名門」障害者問題資料センターりぼん社の代表者である。
 M君はその後、上映実行委員会の事務所に入りびたり、実行委員会の当時のもうひとつの活動、府中療育所闘争支援カンパ集めに没頭する。彼はたったひとりで駅頭に立ち、関西では話題にものぼらない運動支援を述べ、時には、1日1万円以上のカンパを集めてきたのだった。今時分の1万円では誰も驚かないが、72~3年当時のことではある。みながみな口アングリでビックラしたものだ。また彼は、神戸大学を受験したと親を偽り(ボクたちは、本当に受験して大学に行った方がいいとサンザン説得したのだが、彼は聞き入れなかった)、受験料もカンパしてしまった。試験発表の日、親には落第したと報告したのだが、心配した親が発表会場に見に行き、M君の名前がないことから、偽受験がバレ、ボクはずいぶんとM君の親に恨まれた。
 その西宮市の上映会が終わり、事務所に横塚さんともども引き上げるご一行様のなかに、M君の姿がシッカリとあった。と同時に、上映会場ではポツリとも言葉を使わなかったけれど、妙に存在感のある女性障害者がひとり、M君と一緒にヒョコヒョコとついてきた。当時20才で、キリッとした美しい表情をアテトーゼで崩しながら、節を曲げることを許さない風情を持ったKさんという脳性マヒ者だった。この女性が後に、自立障害者集団「グループリボン」を牽引し、日本脳性マヒ者協会・関西青い芝の会連合会の立て役者になっていく。M君もまた、自立障害者集団友人組織グループゴリラを組織し、後年このふたりとボクは、切ない出合いと別れを経験してしまうのだが、その時は、Kさんのそそいでくれる砂糖スプーン2杯半入りのインスタントコーヒの香りしか、ただよっていなかった。
 横塚さんの気持ちに伝染した、このふたりとの運命的出合いが、ボクの大部分を占拠したといっても過言ではない。事務所にたどりつくと、ドアのところにKさんのセンスのいい小さな靴と、M君の想像を絶するドタ靴がチマッと並んで揃えられた。

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。