私的「障害者解放運動」放浪史(その9)

大人っていうのは もっと素敵なんだ
子供の中に 大人は生きてるんだ
早川義夫作詞・作曲 ジャックス「ラブ・ジェネレーション」
障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊)
元編集長・河野秀忠
豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載
去りゆくひとびとと、残されるボク
1996年末、ボクは、大切な友人をふたり亡くした。ボクがまだ20才代前半の青く、貧しく、だのにキリキリと日毎を疾走しつつ、メモリィを乱費していた頃に、そのひとりの友人、Nさんと出会い、もうひとりのOさんとは、障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」を刊行した1980年代中頃に、北海道の札幌市で出会った。
目ン玉をグリグリ動かして、「世の中を変えるンや」と、アテもない方角をにらみつけていた彼、Nさんの表情を、今でも、ボクはボクの脳の内側でクッキリと再現できる。おたがいのポケットを探り合い、糸クズにまみれた小銭を寄せ合って、安い酒精を分け合い、酔いの世界を幾度探検したことだろう。ボクとNさんは、その時々に世界を抱擁していたのだと想う。
それは、この「放浪史」の前史ともいえる未成熟なボク的世界だった。その後、ボクは相変わらず大阪の地面に這いつくばるばかりで、Nさんとの音信も途絶えがちな時間が、橋の下を流れる水のように、行方を告げに流れ続けた。
そのNさんと、昨年の春再会した。元気そうで、連れ合いさんと同行ふたり。「ヨォ、河野ゲンキしてるかァ。今度結婚したンや。お前にだけは紹介しとかンとなァ思うて連れてきたンや」と、昔と変わらぬ声の色で話してくれた。そのNさんが、交通事故で昨年末亡くなった。連れ合いさんの電話口での消えそうな知らせの声に、ボクは呆然とするばかりで、その夜取り乱した。泣いた。涙が止まらなかった。メモリィが消去されていくのを、確かに知覚したのだった。
Oさんとは、北海道の障害者運動大結集を旗印にした、「札幌マインド広場」というイベントで出会い、「児地蔵」という作業所というよりは、ヘンな人間ばかり集まった障害者運動の砦といったおもむきの場所で、Oさんは、ガォー、ガオーと吠えていた。Oさんたちも横塚さんたちの「青い芝運動」に触発されて動き出したことを、それとなく聞いたものだった。そのOさんは、昨年春、何に抗してか、自らの命を断ちボクを残して逝ってしまった。ボクは、「勝手なものだ」とつぶやくしかない。
最終列車の尾灯は赤い
横塚さんの発する叱咤激励の声は、上映事務局に山びこして、障害者の自立と解放の運動を形にするんだという精気が、短い時間に凝縮され続けた。大足のM君は、ほとんど事務所に泊まり込み、ビラマキ、上映会場の設営などに汗をしたたらせていたし、Kさんは、横塚さんに同行して上映会場に行き、横塚さんの話しを直接聞くことで、自身の障害者運動を修行していた。
ボクは、「門前の小僧習わぬ経を読み」で、横塚さんの英知を受け止めるのにアタフタするばかり・・・。そのような状況が、多分1年くらい続いたと思う。その間、横塚さんは神奈川と大阪を幾度往復したことだろうか。この「さようならCP」上映事務局の活動で、ボクたちは実に多くひとびとと出会った。当時、障害者市民に関する運動といえば、「親がかりの官製運動」か、飛ぶ鳥を落す勢いのように見えた「全国障害者問題研究会・全障研」の発達保障運動があるだけで、その代行主義、融和主義に異論を持つひとびとの溜息が、その出口を求めてエネルギィを蓄積していた。また部落解放教育の高揚や、反戦運動、狭山差別裁判闘争と、いろいろな場面でのつながりが、ボクたちをしていやがうえにも勇気づけた。
1972年12月、くだんのKさんの手引きで、姫路市にあったKさんの母校、兵庫県立書写養護学校同窓会館にボクたちはいた。
それまで、上映運動を続けながら、書写養護学校卒業生名簿をもとに、その家を訪ね歩いていた。今日のように自動車を自由に使えることもなかったし、卒業した同窓生はほとんど在宅のままにいたから、県内を電車やバスを乗り継ぎながらの在宅訪問による、マニファクチャー的組織化活動である。こういう時は、若いだけが取り柄の体力は重宝なもので、毎週日曜日、朝8時30分(だったと思う)の快速電車に乗るために、大阪駅ホームで仲間と待ち合わせ、姫路市にせっせと通った。
Kさんの匂い立つような「こんにちは」が奏功して、72年12月、姫路市自立障害者集団「グループリボン」の結成の集いが、書写養護学校同窓会館で開かれた。この団体が後に兵庫県グループリボンになり、関西のグループリボン連合会に成長し、関西青い芝の会連合会につながるのである。
集いには、現在も在宅生活を送るF(♂)さん、神戸市で震災被災障害者センターの中心的メンバーとして活動している(♂)Sさん、阪神淡路大震災で命を奪われたM(♀)さんたちの顔があった。筋ジストロフィで、その後に亡くなったひとたちも多い。
Kさんは、自分の口から言葉を紡ぎながら、「今まで自分は、誰かに作られた優等生の障害者だった。これからは、自分で自分を作る」と宣言し、グループリボンの運動を提案した。「ひとつ、自分たちで自分たちの映画をつくる。ふたつ、「そよ風のように街に出よう」運動をすすめる。」と。
Kさんのひたむきな活動スタイルは、仲間に信頼され、ますます激増する。日曜日は、姫路市。ウィークディは、上映事務局を中心にした活動と。毎朝、姫路市から上映事務局に来て、帰りは姫路市行きの最終列車だった。ボクの日毎の仕事は、Kさんを新大阪駅まで送り、最終列車の尾灯を見送ることで終った。
河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。