私的「障害者解放運動」放浪史(その3)

強くなくては生きてはいけない、優しくなければ生きている資格がない。
フィリップ・マーロー(レイモンド・チャンドラー著「プレイバック」)

私的「障害者解放運動」放浪史(その3)

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 
元編集長・河野秀忠

1995年12月12日 豊能障害者労働センター機関紙「積木」NO.86掲載

天下の怪僧

 映画「さようならCP」は、どこから来たのか。その上映運動に連合体が溶けるプロセスをヤクザに語るためにも、映画そのものの原初から書かねばなりますまい。
 1963年5月10日号の「中央公論」に、作家の水上勉氏が寄せた文章がある。いわゆる「拝啓池田総理大臣殿」と題して、敗戦後経済が基礎部分を構築し終り、膨張に転じる時代の福祉政策のひとつのあり方を投じた一文である。この文章は、障害者市民に対する「あわれみ」と「涙」と「同情」テンコ盛りのイヤハヤものではあったが、ある部分で障害児の親や、情け深い善意の市民たちの胸の内に、60年安保闘争後で表出させた空虚と差し違え、感動という無なる概念を満たし、大変に「日本の福祉は遅れている」と、政府批判的評判となった。それは、無なるをもって70年安保闘争への熱気の再生をも、主観的に予感させていたともいえる。
 池田首相といえば、「所得倍増論」を掲げ、アメリカの核の傘の下で、もっぱら経済政策のみ。その経済への労動力の統合のための福祉政策を推進した人物である。ひとびとは、政府批判の一文として、この水上氏の文章を歓迎したけれど、マジなところ、本心から歓迎していたのは、名指しされた当の池田首相と厚生省官僚ではあるまいか。なぜなら、水上氏の文章の基礎をなす、融和的福祉論は、保守、革新を問わず当時の政治家の脳と同質であり、政策的にも異質なものではなく、単に量の過不足が問題にされていただけのことなのだから。「古~ゥ~」と、若い仲間たちからヒンシュクを大量に買いそうだが、そういう時代が確かにあったンですヨ。

 この「拝啓池田総理大臣殿」に、猛烈にかみついていた人物が、関東は茨城県にいた。大仏 空(おさらぎあきら・1984年没)さんである。僧侶という信仰者でありながら、無類の実践家で、障害者運動の日本的水路の源流のひとつである「脳性マヒ者自身による共同体・マハ・ラバ村」(1964四年設立・茨城県南閑居山)を、矢田竜司さん、横塚晃一さん、横田弘さんら、「青い芝の会」運動の大先輩と作りあげた。マハ・ラバとは、サンスクリット語で「大いなる叫び」というそうな。
 大仏さんは、「水上のいってることは、浪速節である。泣き言を並びたて、おなみだ頂戴や同情をそそることで日本の福祉行政がかわるくらいなら、今よりずっとましな国になっているはずだ」と、喝破した。この言葉は、1960年代前半のものではあるけれど、現在の障害者市民状況にも充分過ぎるほどの正確と緻密を持つことが、ボクたちの切ない不幸ではあるのだ。マハ・ラバ村には、墨根鮮やかで筆太な、大仏さんの手による看板が掲げられていた。「役人と犬入るべからず・マハ・ラバ村には鍵がありません」とあった。
 ボク自身は、大仏さんにお目にかかったのが、マハ・ラバ村が事実上崩壊した数年後で、それも「青い芝の会」運動とボクの先生である横塚晃一さん(このような呼び方をすると、今は亡き横塚さんは、きっと怒るだろうなと想いつつ)を通じてであった。両手の指で数えられるくらいの面識しかなかったけれど、ボクの個人的な印象は、精力的で多弁、宗教者にありがちな「悟り切った静けさ」とは無縁な、ある意味での騒がしいひとだったこと。多分、ボクが若い匂いを発散させていた年齢だったから感じたことだろう、ふと「傲慢なひとやなぁ」と、感じる場面がいくつかあったことを鮮明に記憶している。
 マハ・ラバ村では、実に様々な出来事があって、映画のごとく「そして数年・・・」。なんとアバウトな論述であることか、それがこの連載のエエとこなのではあるが。詳しいことを知りたい方は、三一書房「脳性マヒ者と生きる・大仏空の生涯」岡村青著をお読みくだされ。興味深い歴史がのぞけること請け合いである。
 1967年に、イロイロあってまず横田弘さんがマハ・ラバ村を去る。その1年半後に矢田さん、横塚さんも閑居山を去り、事実上のマハ・ラバ村の歴史は幕を降ろす。
 1969年秋深い頃であった。

闘う志が映画に

 下界に降り立った大先輩たちは、神奈川県に再結集して、バラバラにあった「青い芝の会」を統合して、日本脳性マヒ者協会・青い芝の会神奈川県連合会を結成する。その頃に、横浜市で30才の主婦が知的障害を持つわが子をエプロンのヒモで締め殺すという事件が起きた。そして脳性マヒ者の怒りが爆発し、その炎のなかで映画のシーンが紡がれたのだった。

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。