私的「障害者解放運動」放浪史(その4)
さよならを言うために出会う者たちがいる
悲しいけれどそれは本当のことだろう
金森幸介「愛さずにはいられない」
障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊)
元編集長・河野秀忠
豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載
障害児殺し
マハ・ラバ村から下山した大先輩たちを待ち受けていたのは、二期目青い芝運動を担う組織再編であつたことは、前回に書いた。その多忙極まりない状況にたちふさがった事件が、ボクがまだ青い匂いを発散させながら、「中央権力闘争」なる日比谷公園野外音楽堂の集会に行かなくなった頃と重なる、1970年に起こった。世にいう「重度知的障害児殺し減刑運動」である。
この事件に最初に敏感に反応したのは、大先輩のひとり、横田弘さんだと伝えられている。障害児の親の組織「神奈川県心身障害児父母の会連盟」などによる事件を背景としたキャンペ-ンは、「施設も家庭療育の指導もなく、生存権を社会から否定されている障害者を殺すのはやむを得ざる成り行きであり、福祉行政の貧困に強く抗議するとともに、重症児対策のすみやかなる確立を求める」と主張する、人権もへったくれもないシロモノではあったが、時代は、それに呼応する形で障害児を殺した母親の住む町内会を核とした、減刑嘆願運動を増殖させた。
横田さんは、「障害児を殺す側からの減刑運動はよく起こるが、殺される側からのいい分はいまだかって聞いた覚えがない。もし、このことを容認するなら、今生きている障害者は、いつ殺されてもいいということになるではないか」と、再編なった青い芝の会に論議と行動を求めた。
ほどなく「CP児殺し減刑問題に関する意見書」が「日本脳性マヒ者協会・青い芝の会神奈川県連合会」の名前でまとめられ、関係方面に届けられた。横塚晃一さんも、「この障害児殺しの罪を曖昧にすることは、障害者の生存権を危うくすることではないか。施設がないから殺したというが、施設を必要としているのは親たちではないか。その親たちの要求で作られた施設でありながら、障害者福祉とされるのは誤りではないか。親が障害児を私物化したところにこの事件の本質がある」と強く主張されたし、また「もし、この母親を無罪にするならば、障害者はいつも心臓にナイフをつきつけられていることになりはしないか」ともいわれていたのを、ボクは直接聞いたことがある。
事件そのものは、「苦しんだ母親にこれ以上のムチをあてるな」とする差別世論に支えられる形で、事件発生1年半後の1971年10月8日に、横浜地裁で一審判決が出された。「懲役2年・執行猶予3年」の、時代とはいえ驚くべき緩刑であった。しかし、とにもかくにも「無罪」ではなく、「有罪」を認めた判決が出たことで、青い芝の会としての減刑阻止の行動は終息を迎えることとなった。
この減刑阻止の行動と軌を一にして、「映画・さようならCP」の製作活動がすすめられた。資金の調達は神奈川県青い芝の会連合会が担い、制作は「疾走プロダクション」。元テレビディレクターの原一男監督がその撮影にあたった。1972年3月、映画が完成し、本格的な上映運動が神奈川県を皮切りに、関東を中心に始められた。それは従来の上映会としてではなく、障害者問題の討論会とセットで開かれ、大先輩の誰かが必ず参加するという形を取っていた。直接に大先輩たちの意見を聞けた当時のひとびとは、至福といわねばなるまい。
この上映運動の中で、障害者運動の根幹を揺るがす、「優性保護法改正案」の国会上程問題が浮かび上り、一方、府中療育センター闘争(施設移転、処遇をめぐって)、運転免許試験を拒否された荒木義昭(CP者)さんの無免許運転をめぐる裁判闘争なども、豊盃(ほうはい)と地鳴りを続けていた。
これらの時代を予見させる嵐は、青い芝の会をして、「さようならCP」の上映運動をテコに、全国組織化、つまり第3期青い芝運動へと赴かせる。そしてその波は、関西方面にジリジリと接近してくるのだった。ボクはすでに八木下浩一と親交を結んでいたこともあって、府中療育センター闘争の東京都庁前テント坐り込みにも参加していたし、後方支援と称して「府中療育センター闘争に参加する障害者仲間に電動タイプライターを贈る」活動を大阪方面で、少数の仲間とチビチビすすめていた。ほんにお恥ずかしい私的な事柄ではあるけれど、現在の連れ合いの保子さんも、その少ないメンバーの一員として力を注いでいてくれていた。
最初はモノ、そしてヒトがやってきた
ボチボチと八木下を通して、実態としての障害者運動をベンキョーさせられていた1972年の初め、ケンケンゴーゴーの論争が巻き起こった。それは前述した青麦印刷所を通して、「さようならCP」が関西にやってきたことから始まる。大阪教育大学(旧学芸大学)や神戸大学で、障害者の聴講運動を担っていた学生組織と、ボクたちのエエ加減連合体が上映実行委員会で顔を合わせたトタン、「このような映画を上映することで生れる、責任を取ることはできない」とする学生組織と、映画を一目見てビックラこいたボクたちエエ加減派の、「とにかく上映をすすめて、障害者自身の声を聞きつつ活動をすすめよう」という主張がガップリよつ。ネバリには自信があるからネバリ続けたら、学生たちがいなくなった。その中で残ったのが神戸大学のS君と近畿大学のボロボロ5人組だけ。 このS君は、後に障害者問題資料センターりぼん社設立の時の、ボクと代表を務めた人物で、現在は医者。近畿大学の5人組は、初期の「そよ風のように街に出よう」編集部を構成したモロモロにいた。そして、連合体はいつの間にか、「さようならCP上映実行委員会」に溶け、委員会の事務所も、連合体が知人から借り受けていた、新大阪駅前の第二地産マンションの一室にころがりこんできたのである。「どないなるンやろ」と、ウロンウロンしている時に、映画を追っかけてお師匠さんの横塚晃一さんが現われたァ。1972年初夏の頃である。
河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。