私的「障害者解放運動」放浪史(その5)

ドブネズミみたいに美しくなりたい
写真には写らない美しさがあるから
ブルーハーツ「リンダ・リンダ」

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 
元編集長・河野秀忠

豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載(1996年)

思わぬ再会

 前号で紹介した、ボクと八木下の出会いを演出し、大阪市住吉区にあった「青麦印刷所」を覚えておられるだろうか。もうずいぶん昔のことなので、ボク自身の脳のなかでも形がくずれつつあるのだが、そこで出会ったいろいろなひとたちのひとりに、青麦印刷の女主人で、原則主義の鏡のような、例えばAさんというひとがいた。「さようならCP」上映運動が、ボクたちのネバリ勝ちの末、ボチボチと始まりかけた頃に、事情はあまり深くはしらないけれど、青麦印刷本体が崩壊する事態になり、それにつれてそこに集っていたファミリィも四散してしまった。
 Aさんは、こどもとともに滋賀県の障害者作業所に移り、それなりの活動を継続されていたようなのだけれど、いつしかその消息も絶えてしまっていた。
 今年(96年)の2月24日、ボクは、「さようならCP」上映運動後期に、突出した「関西青い芝の会連合会」におずおずと参加し、その後、滋賀県大津市で「今日も一日がんばった本舗」なるふざけた名前の作業所を牽引している年来の友人、障害者仲間K君のオイデオイデで、大津市にいた。目的は、そのK君たちが組織している、大津市障害者作業所連絡会(12ケ所加入)の「障害者市民の雇用をすすめる」ための研修会でこんにゃく講演をすることにあった。
 あまり役に立ちそうにないボクの話がおわりに近い頃、なにげなく会場の後方に視線を届けると、そこにおぼろげだけれど、形をとどめたAさんの顔を発見したのだ。本当にビックリした。研修会が終ってから、Aさんと少しの時間言葉を交わすことになったが、相当前に滋賀県から神奈川県に移転し、今は、県立H養護学校の教師をしているとのことだった。「この歳だから、学校でも最古参の部類ですよォ」と笑った。
 校外研修の名目で、休みを利用して昔の作業所仲間を訪ねたついでに、この研修会のことを知り、懐かしくて参加したのだという。こどもさんのことを聞くと、目を伏せ、苦い気持ちをにじませ「大学4回生の時に、オートバイ事故でネ」と、ひとつの死を告げた。
 ひとの生き方に運命というものがあるとすれば、あまりに切ないことが多すぎるじゃあないか。

お師匠さん現れる

 今振り返ると、長い時間を使って障害者運動に添ってきたつもりだったが、ボクの放浪史を形成する原初は、ほんの短い間に瞬間の連続としてあったことを痛感する。あれもこれもが不連続に次々と登場して、年数をかぞえることが困難を極める作業になる。多分、ボクの大切な宝物でもあるメモリィの時間トータルは、5年間くらいのものではなかったのかが、意識される。
 その中でボクは、「さようならCP」という映画(横田大先輩のオールヌードを始めとする、各場面に打ちのめされた)、それを作り上げた青い芝の会運動、なかんずくその運動の実践・理論のリーダーであった横塚さんたちに、畏敬の念をただただ、抱くしかなかった。
 それまでに、エエ加減連合の友人、八木下というポン友を得てはいたけれど、それはボクを支えてくれ、文句をいい合うかけがえのない友人ではあっても、どっぷりとつかり切っていた、階級論と骨がらみになっている能力思考から、理論と感性において解放を示唆してくれることはあまりないのが実情だった。それほどにボクたちは若かったし、無知であることに無関心でいられたのだった。

 72年の初夏、というよりも梅雨の時期で、雨がふるようなやむような空模様のある日。ボクは、朝からそわそわと落ち着かず、当時はあまりビルも乱雑に立っていなかったので、第2地産マンションの7階の事務所から直望できた新大阪駅に、チラチラと視線を放ってばかりいた。
 数週間前に神奈川青い芝の会連合会から手紙が届き、「横塚君を関西でのさようならCP上映運動をすすめるために派遣する」とあった。こちらは単なる上映運動実行委員会であって、製作元のいい分には、ハハーッと応じるしか手段が見つからない。その横塚さんが来阪する日がきちゃったのである。
 ここのところは、ボクにとってなんともはや、忘れることのできない重大な歴史的出会いであることもあって、少し紙数を使わせていただきたい。つまり次号にもまたがることをお許しいただこうと考えている。

きたァ

 横塚さんを迎えることで、ボクと横塚さんの事務所での同居生活が、3ケ月ほど続くことになり、連れ合いの保子さんはブツクサと文句をたれていたけれど、ボクにとっては、そんなことに構っちゃいられませんデスの状況なのだ。なんといっても、横塚大先輩なのだ。
 見知らぬ障害者仲間と待ち合わせをするときは、時間前に待ち合わせ場所に行かねばならない。これは原則である。なぜなら、障害者仲間はひと目にすぐ分かるけれど、健全者である当方を健全者の群れの中から探し当てることはなかなかに困難であるからで、早く到着してこちらから声をかけることがベストなのだから。
 ということで指定された時間前に、ボクは傘をさし、一本の傘を小脇に抱えへしょぼつく雨をくぐりながら、新大阪駅のホームに急いだ。現在のボクのマジメなスタイルからは想像できないだろうが、当時のボクは、髪の毛がライオンのまたてがみのようで、今流行りのチョンマゲ風に後ろでひっつめてくくっていた。他者から見ると、ちょっとどころか相当異様な風体であったようだ。その格好のオトコが傘を小脇にホームに立ち、到着した列車を凝視している。その視界にヒョコタン、ヒョコタンと入ってきたのが、他ならぬお師匠さん・横塚さんだった。

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。