私的「障害者解放運動」放浪史(その6)

悪い予感のかけらもないさ
ぼくら、夢を見たのさ
とてもよく似た夢を
RCサクセション・忌野清志郎「スローバラード」

障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」(2017年終刊) 
元編集長・河野秀忠

豊能障害者労働センター機関紙「積木」掲載(1996年)

唐草模様の風呂敷

 72年当時といえば、日本労働運動が70年安保闘争の余韻の海に浸っていた頃で、ナショナルセンターとしての総評も、落日の気配を予感させていたが、まだまだゲンキな顔をしていた。時あたかも第三次佐藤栄作内閣の末期、田中角栄通産大臣の「日本列島改造論」が刊行され、田中内閣誕生直前である。この頃から、日本政治は、理念を放棄しつつ経済の大爆発に向かってひた走る時代に突入する。次の年にひとびとを大慌てさせる「オイルショック」はあるけれども、バブル景気で破産した「土地神話」をテコにして、猛烈な経済開発、土地利害政策まみれにひとびとを巻き込んでいく。
 障害者運動もいやおうなく時代の洗礼を受ける。つまり、「入所型施設全盛」福祉の山場を迎えるのである。皮肉なことに、70年代に突入する中で、労働運動や政治運動の対抗軸が不明瞭になるのだが、それに反比例するがごとく、いわゆる障害者運動(当事者運動)と、親教師を中心にした全障研(全国障害者問題研究会・1967年結成)や、官製の親、保護者、関係者の「施設要求型・福祉がすすんでいないから施設がない」とする運動との対決軸が鮮明になってくる。つまりそれは、障害者自身の権利と要求が少しずつ明瞭になっていくプロセスそのものだった。
 その主体たる横塚大先輩が、ヒョコタン、ヒョコタンとボクの視界に大写しになった。当時の新幹線には、キモの縮むような「のぞみ号」のチョー速度はなかったし、まだまだ「ひかり号」よりも「こだま号」が幅をきかせていたのダ。新大阪のひとごみも今日ほどはゴミゴミしていなかった。なにより、ボク自身の感覚からして、新幹線はナニか特別な時に乗る乗り物だったし、東京方面にでかける(そういう機会はめったにあ~りません)時は、夜行列車の銀河を利用して、深夜発、早朝東京駅着というのがフツウだった。今もビンボーだけれども、当時はもっとビンボーで、いわゆる赤貧洗うがごとしの状況。そしてダ、新幹線は「国鉄・日本国有鉄道」といわれとったのダヨ。JRなどといいう、どこの国で走ってる鉄道かワカラン、ハイカラな名前ではなかった。まだ「チッキ」という制度(列車切符を買うと、荷物を送る費用が割引された。地方のひとたちが都会に働きに行くときとか、転勤、入学のフトンなどの生活用品を送るのに頻繁に利用した。この言葉を知ってるひとは(*1996年当時)多分50才を過ぎているくらいに古~い)があったくらいなのである。
 すでに遠い昔になって、ボクの脳もその光景を復元することが困難になっているが、どうしても忘れられないのが、横塚大先輩が持っていた風呂敷である。どうしてか、横塚さんは、どこに行くのにもよく風呂敷を使っていた。まぁ風呂敷は、ナニをするにも包むにも便利なシロモノだし、あるいは関東地方の文化のひとつかもしれないなどと推察したものだったが、ついぞその真相を横塚さんから聞いた記憶がない。新大阪駅で目撃した、横塚さんご愛用の風呂敷は、色鮮やかな唐草模様だった。

初めて、意見されてシュン

 つたないハナシだけれども、ボクがそれまでつき合った障害者仲間は、八木下を始めとする同年配か、ボクより年下のひとばかりで、後に大阪青い芝の会二代目会長となる、高橋栄一さんが現れるまでは、横塚さん、横田さん、寺田さんたちだけが目上の人たちだった。そのこともあっただろうし、ボクの身に染みついた「差別・助けなくっちゃ」の心理が大動員されたこともあったのかもしらん。
 新大阪駅ホームで、初対面の挨拶を簡単にすませ、駅前にある事務所へ、横塚さんを案内するために、横塚さんの少し斜め後方に位置を取り、横塚さんの歩調に合わせて歩きだした。(こここらあたりがゴーマンだネ。若いネ)当時の新大阪駅にはエレベーターがなかった。今は、その後の駅長交渉によって駅のはしに申し訳のように、長大なスロープが取り付けられているし、荷物用ではあるがエレベーターも使える(*1996年当時。その後整備されて現在はエレベーターがあります)。
 ということで、必然として横塚さんとボクは階段を使うことになったのだが、ボクの目には、その時の横塚さんの階段使用の方法が、とても危なっかしく映ってしまったのだった。交互に階段に足を踏みしめるのではなく、横塚さんは、一段ずつ両足を揃えて階段を降りていく。一歩降りては、足を揃え、また一歩踏み出すのである。それも風呂敷を抱えつつである。それが邪魔っけに見えた。 それでボクは、「横塚さん、風呂敷を持ちましょう」と、いうやいなや、横塚さんの腕にあった風呂敷包みを、気を効かせたつもりでサッと「奪って」しまったのである。そのトタン、眼前の光景がボクの想像力を粉砕してしまった。風呂敷包みを理不尽にも奪われた横塚さんは、バランスを崩してたたらを踏み、もう少しで階段の真ん中あたりから落下しそうになり、ボクが飛びついて階段にへたり込むことで、かろうじて難を排除できた。
 そんな事件(ボクにとっては、その後のボクを決定づける重大なコト)を通過して、雨のしょぼつく中、ヘンな風体のオトコと、ヘンな動きをするオトコは、いわゆる事務所(南米に赴任していたある商社マンから、無料で借り受けていた)に「たどりついた」のダ。到着即、横塚さんの切ない目の色におおわれた意見を聞かされた。
 「河野さん(横塚さんは、終生ボクのことをそう呼んだ)、ひとにはそれぞれのリズムがある。それを奪われたら生きていけないのだよ。君は今日、ボクのリズムを奪った。ボクが必要とする援助は、ボクのこととして君に要請するから、それに応えてくれるだけでいい。そうでない援助は、ボクを損なうから、断わる。障害者は常にそのことをいってるのに、それに応えることなく、余計な援助が押しかけてくるんだ。それは抑圧にしかすぎないんだよ」と。その言葉を聞きつつボクは、横塚さんの眼を見る力を持てなくなった。シュンである。
 その夜、横塚さんを囲んだ若い障害者たちと、シュン太郎のボクの小さな歓迎宴、酒精の彩りにむせ、幼い若鳥が、エサをねだるように「障害者のパッション」を横塚さんから口移しでもらう時間となった。夜が更け、明日が見えてくるような気が、確かにした。

河野秀忠
1942年大阪市生まれ。中学卒業後、酒屋の店員・トレーラーの運転手などをしながら、反戦・部落・沖縄問題に取り組む。
1971年に障害者の友人を得て、障害者市民の自立と解放の活動へ。脳性麻痺当事者組織「青い芝の会」を取材した「さようならCP」の上映運動を始め、以後、障害者映画の制作・上映運動、優生保護法反対運動、養護学校義務化阻止闘争に取り組む。1973年、障害者問題資料センターりぼん社を設立。1979年、障害者問題総合誌『そよ風のように街に出よう』を発刊、編集長となる。1982年、豊能障害者労働センターを創設、代表となる。1995年、牧口一二と「民間障害者市民復興計画委員会ゆめ風基金」(2005年「特定非営利活動法人ゆめ風基金」、2012年認定NPO法人)を創設、副代表となる。
『そよ風のように街に出よう』は2017年7月発行の第91号で終刊。同年9月8日、脳梗塞で死去。
著書:『ラブ - 語る。障害者の性』(共著)、障害児教育創作教材『あっ、そうかぁ』『あっ、なぁんだ』『ゆっくり』『しまったぁ』、『ゆっくりの反乱』など多数。